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航空歴史館  日本におけるコンベア ライナーの歴史

History of the Convair Liner in Japan

 

2014/08/01  アラビア石油のJA5048を除く全社の掲載を完了 

  

CV440 (CV340CV440)

JA c/n 輸入前 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972  
JA5053 440 新規   全日空      中日本 →CF-PWR
JA5055 441 新規   全日空      中日本 →CF-PWS
JA5083 199 REAL      

全日空

→SE-CCO
JA5085 200 REAL      

全日空

→SE-CCP

CV240

JA5048  64   アラビア石油

→N5550A Interanational Drilling Co.  Holland 

JA5068 100 MOHAWK     北日本

国内航空 阿波

→N24000
JA5069 129 MOHAWK      

北日本

国内航空 土佐

→N24029
JA5087 17 WESTERN      

北日本

国内航空 津軽

→N8404H
JA5088 27 WESTERN      

北日本

国内航空

65/07/01帯広でクラッシュ

JA5092 47 WESTERN        

北日本

国内航空 日高

→N8408H →N240HH
JA5096 165 AMERICAN      

富士航空

国内航空 北見

→N17418
        東京国際空港での整備風景
JA5098 53 AMERICAN        

富士航空

64/02/27大分空港で炎上

JA5110 76 AMERICAN        

東亜航空

→N51331
JA5112 108 AMERICAN        

富士航空

国内航空 十勝

→N17417
JA5113 85 AMERICAN        

東亜航空

展:広島チチヤス→解体
JA5118 95 CPAL          

東亜航空

展:ドライブイン姫→解体
JA5120 177 GALUDA            

日東

国内航空 石狩

→N17419
JA5125 73 CPAL            

日東

国内航空 陸中

→N90844
JA5126 94 CPAL               東亜航空 展:下関サンデン交通→解体
JA5130 97 CPAL               東亜航空 展:富山、岐阜、静岡→鈴鹿市で保管
JA5131 96 CPAL               東亜航空 展:新宿歌舞伎町→解体
  1958 1959 1960 1961 1962 1963 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972
調 査 研 究

3社合併初期から後期までの日本国内航空CV240の塗装について

F A A

FAA東京飛行検査事務所のCV240


 

▼ JA5048   アラビア石油48

 JA5048の経歴 (2023/08/05大幅更新 黄色文字)

 

c/n64 タイプ240-5
Western Airlines向けに発注された20機のうち5機がWestern Airlines向け仕様(240-1)のままTrans Australlia Airlineに納入されたうちの1機。 購入価格 240,000ドル。

1948/03/28 VH-TAQ Australia機として登録
1948/08/21 サンディエゴで完成
1948/08/25 Trans Australia Airlinesに引渡し
1948/08/26 サンディエゴからオーストラリアに向けで出発 東周りでロンドン、ローマ、デり、シンガポール等を経由
1948/09/07 オーストラリア メルボルン到着 機体名は"John Forrest" 
1948/10/18 Trans Australia Airlines にて運航開始
1954 Royal Tourの為にVIP仕様に改装
1956/08/05 Trans Australia Airlinesでの営業運航終了
1956/08/16

Trans Arabia Airlinesへ売却 同日レバノンに向け出発 
米国 N9853F登録 総使用時間21,168時間

1956/08/21 レバノン ベィルート到着
1956/09/06 Wm C. Wold Associatesに売却
1956/09/12

英国 G-AOFC 登録 
クウェート国 シェイク・アブドゥラ・アル・ムバラク・アル・スバー閣下 名で登録
クウェート首長国特別機となる。

1956/09/28

Sheikh al Subah t/a Trans Arabia Airwaysに売却
オーストラリア VH-TAQ 登録を抹消

1957/05/22

G-AOFC Sheikh Al Sabah "KUWAIT EMIRATE SPECIAL"
総使用時間21,233時間

1958/07/08 英国 G-AOFC 登録抹消
1958/08/09

JA5048登録  アラビア石油株式会社 Japan Arabian Oil Co. 
定置場 レバノン共和国ベイルート市ベイルート国際空港
8月末耐空検査を実施するもエンジン不調のため未了

1958/12/25 耐空証明未交付のままJA抹消登録 
1958/12/23 N5550A Interanational Drilling Co.  Holland 
1959/03 ノルウェーLN-LAU Norronfly
1960/06/15

N556R Beldex Corporaition
ノルウェー LN-LAU 登録抹消

1961/07/27 N3358N R.O.Naugels
1962/12/26 N3358N Rialto Corporationへ売却
1963/11/18 N295M Magnavox Corporation Fortwayne,Indianaへ売却
1971/05/14 N295M AirResearch Aviation Coへ売却
1971/05/28 N295M Carolina Carolina Aircraft Corporationへ売却
1971/09/20 Diversified Marketing Incへリース
1973/08/24 N295M LAX Electronics, Cartaret, NJに売却
1974/11/18 N295M Wilgren Electronics Corporation, Cartaret, NJへ売却
1975/03/27 N295M National Equipment Rental Ltd, New Yorkへ売却
1977/05/02 N295M Aviation International Resources Inc, Stratford, Connecticutへ売却
1981/10/14 N295M Providence Air Charterへ売却
1983/04/15 N295M T.W. Hunt, Guildford, Connecticut へ売却
1983/06 N295M Combs Freightairが運用 (同社は資金難で倒産1985/01/14で営業飛行停止)
1986/01/23 N295M Air Safaris Inc, San Jose, Californiaに売却
1991/08 N295M M.B.M. Aircraft Leasing & Sales Inc, Miami, Floridaに売却
1995/04/17 N295M Bahama Air Ferries Inc, Daytona Beach, Floridaに売却
1994/04 Trans Florida Airlines Incにリース
1999/09/12 営業運用終了 総飛行時間 30,552時間49分
2003 フロリダ ディトナビーチで保管後解体?
2013/09/24 N295M to登録抹消 (書類上は1995年の登録時1956年製造と書かれていましたが経緯不明)


アラビア石油株式会社ホームページから

1957/12 日本輸出石油株式会社がサウディアラビアと利権協定締結
1958/02 アラビア石油株式会社設立、日本輸出石油株式会社よりサウディアラビアと利権継承
1958/07 クウエイトと利権協定締結
1960/07 カフジ油田発見

 日本のコンベアライナーとしては、全日空のCV440(1959年8月登録)よりもはるかに早く登録されたのがアラビア石油のCV240 JA5048です。

 その資料を探していますが、手持ちでは、1959航空年鑑(日本航空協会)の登録航空機一覧表にJA5048 アラビア石油株式会社 定置場 レバノン共和国ベイルート市ベイルート国際空港とあるのと、1959世界航空機年鑑(酣燈社)のコンヴェアCV-440メトロポリタンの解説の末尾に最近アラビア石油がCV-240型1機を買い入れ、日本籍に登録されたとあるのみで、くわしい説明も写真も見当りません。

 アラビア石油ホームページの社史によると、サウジアラビアの王族との石油掘削利権をめぐる交渉は苦難の連続であったようで、恐らく、向こうさんは厄介な中古機をこの際売りつけてしまえという魂胆で持ち出し、日本側はしぶしぶ抱き合わせ条件の一つとして呑んだのでしょう。抹消までの4ヶ月間、この機体が日の丸を描いて飛んだという記録も今のところ見当りません。

 ベイルート国際空港を定置場としているのも異例です。国外定置場の唯一の事例ではないでしょうか。お堅い航空局ですから、レバノンまで出かけて耐空検査を実施したのか、日本へ飛来させて検査したのか、そこのところを是非知りたいものです。 

 当時の総理は岸信介、大蔵大臣は一万田尚登、通産大臣は前尾繁三郎、運輸大臣は中村三之丈、力強い顔ぶれでした。その彼らを動かしたのは、石油のために大東亜戦争に敗れた苦い思いが、新たな中東の石油利権獲得を積極的に協力させたのでしょうし、アラビア石油の会長石坂泰三、社長山下太郎の実力も相当なものであったのでしょう。

 札幌農学校出身で、大志を抱いて大成功と大失敗の繰返しを歩んできた山下太郎が最後に大きく開花させたアラビア石油ですが、その中で小さな歴史に過ぎないにしてもコンベア CV240 JA5048の姿をもっともっとクローズアップしたいものです。


  故藤原 洋氏のCV240 JA5048に関する遺稿
(佐伯邦昭から注;整理中の資料の中にあったもので、1970年頃に書かれたものと推定、一部修正しています。2023/08/05記) 

 アラビア石油株式会社(社長山下太郎)では、クエート王国から王室専用機コンベアCV240を購入し、JA5048として登録しました。
 この機体は、オーストラリア航空がVH-TAQの登録記号で定期輸送に使用後、米国、クエートと渡っています。
  米国ではN9853Fの記号で使われた後、G-AOFCとしてクエートの王室専用機となりましたが、米国で内装を王室専用に改造し、既にクエートへ渡っていたとも考えられます。ログブックによる両記号時代の総使用時間は経歴表のとおりです。
 アラビア石油株式会社は、クエートの石油採掘の利権を獲得するために、抱き合わせで買わされたもので、65万ドルという、当時の国際価格からすれば法外な高価でした。
航空局は、1958(昭和33)年8月末にヨーロッパへ行く途中の田辺検査官にベイルート空港で耐空検査を行わせました。
しかし、どちらかのエンジンのキャブが不調で試験飛行ができず、結局日本の耐空証明は交付されないまま同年12月に売却されてしまいました。
 田辺検査官が写した写真を見た記憶では、胴体の左後部にJA5048と記入してあり、機内は王室専用機らしくデラックスな配置でした。写真がどこかに保管されていないでしょうかね。

 

 

JA5068 北日本航空 日本国内航空阿波   068 

JA5068の経歴

1949/03/25 c/n100 タイプ240-14 
  XT-600 Central Air Transport Corp.
  N8300C Civil Air Transport
  N6651C Mohawk Airlines
  N1011C Mohawk Airlines "AIRCHIEF ONEIDA"
  N1016G Generall Dynamics Corp.
1960/08/19 東京国際空港に到着
1960/09/03 JA5068登録 北日本航空 定置場丘珠飛行場 
1964/04/15 日本国内航空 愛称阿波  定置場東京国際空港
1966/05/10 抹消登録 
1966/05/09 売却 General Dynamics N24000 (パナマ)
1967 N24000 Lear Sigler Inc.

北日本航空標準塗装例 ハワイアン航空カラーの踏襲 作図佐伯邦昭


北日本航空 撮影1961/03/07  東京国際空港 geta-o

 B滑走路の04側エンドでホールド中の北日本航空塗装機。後方に当時の各社の路線機JALのDC4やANAのリースしたバイカウント744が見えます。


日本国内航空 撮影1964/05/01 東京国際空港 赤塚 薫

 日本国内航空発足から半月後で、応急処置の塗装だったことが分かります。


撮影1964/10/04 東京国際空港 geta-o

 尾翼のマークと胴体上部が日本国内航空に変わっています。


1966/04/23 東京国際空港 geta-o

 抹消登録16日前の写真。これもBランの端での撮影です。機首に「阿波」の名称が書かれていますが塗装の変更はありません。ということはJA5068は日本国内航空の標準塗装にならずに抹消されたと思います。

日替わりメモから転記

○ コンベア CV240 路線就航1番機の北日本航空JA5068

 日本のコンベア CV240の登録一番機は、アラビア石油のJA5048ですが、石油利権の抱き合わせか何かでクウェートの王族から買わされたものと思われ、(日本へ飛んできたという記録もなく)2か月後には転売されていますので、これは日本のコンベア CV240例外機扱いにした方がよいでしょう。

 実質的な一、二番機は、北日本航空がモホーク航空の中古を買ったJA5068とJA5069で、北日本は、この後にCV240を3機導入し、富士航空、日東航空、東亜航空も相次いで採用しましたので、ローカル空港のどこへ行ってもコンベア CV240が見られるというブームの先導役となったわけであります。

 ところで、日本国内航空発足後のCV240の塗装は、すべてJDA標準に塗り替えられたものと思っていましたら、一番機のJA5068は、退役前の写真でも北日本の胴体ラインがそのままでした。梅雨のためにお宅で写真整理をはかどらせていたgeta-oさんが、「新発見ですよ」と言って送ってくれたものです。二番機のJA5069は標準塗装になっていますので、それぞれのページでお確かめください。旧会社の胴体ラインをそのままにしていたのは、何か理由があるのでしょうか。旅客機の塗装は会社の表看板みたいなものですから、訳を知りたいですね。

 

 

 

JA5069 北日本航空 日本国内航空 土佐    069

JA5069の経歴

1949/02/22 c/n129 タイプ240-14 
1949/02/28 XT-606 Central Air Transport Corp.
  N8303C Civil Air Transport
  N6633C Mohawk Airlines
  N1016G Mohawk Airlines "AIRCHIEF SENECA"
  N1016G Generall Dynamics Corp.
1960/08/19 東京国際空港に到着
1960/09/03 JA5069登録 北日本航空 定置場丘珠飛行場 
1964/04/15 日本国内航空 愛称土佐  定置場東京国際空港
1966/04/28 抹消登録 
1966/05/09 売却 General Dynamics N24029 (パナマ)

北日本航空 撮影1962/10/01 釧路空港 OKUBO

北日本航空 撮影日不明  大阪国際空港 中井アルバム  前脚カバーが開いている珍しい写真(通常は閉じている)


北日本航空 撮影日不明 東京国際空港 提供JAHS

日本国内航空   撮影1965/07/11  東京国際空港 PAPPY

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JA5087 北日本航空 日本国内航空津軽 南西航空   087

JA5087の経歴

1948/12/23 c/n27 タイプ240-1
1948/12/24 N8406H Western Air Lines "Fleet No.806"
  California Air Carrier Service Corp
  Korean Air (never put in servise) 
1961/05/17 JA5088 北日本航空 (伊藤忠商事扱い)定置場丘珠飛行場
1664/04/15 日本国内航空 愛称津軽
1967/07/01 南西航空へリース 1968/07 リースバック
1968/11/29 抹消登録 売却 N8404H California Air Carrier Service Corp

北日本航空  撮影1962/05/06 ET


撮影1962/10/27 赤塚 薫

日本国内航空 撮影1965/08/17 東京国際空港 PAPPY
   
合併から1年以上たっていますが、胴体ラインは北日本航空のままです


撮影日場所不明 中井アルバム


日本国内航空標準塗装 撮影1966/09/29 東京国際空港 下郷松郎



日本国内航空    撮影日不明 福岡空港 M.Kido



南西航空(JDAへリースバックで東京へ帰還していた) 撮影1968/06/29 東京国際空港 geta-o

 

 

JA5088 北日本航空 日本国内航空    088

JA5088の経歴

1948/09/21 c/n17 タイプ240-1
1948/04/16 N8404H Western Air Lines "Fleet No.804"
  California Air Carrier Service Corp
  Korean Air HL25 (never put in servise) 
  N8404H Western Air Lines
1961/05/17 JA5087 北日本航空 (伊藤忠商事扱い)定置場丘珠飛行場
1664/04/15 日本国内航空 愛称?
1965/05/29 帯広空港で片脚着陸 大破
1965/07/20 抹消登録 

ウエスタン航空機を輸入し羽田に到着直後 航空情報1961年7月号国内ニュース


北日本航空
 撮影1962/11/03  東京国際空港 geta-o

日本国内航空 撮影1964/10/07 東京国際空港 佐伯邦昭

240-1型の特徴 後部エアステア
 

日本国内航空  撮影日不明 東京国際空港 提供JAHS

TOP

 

    092

JA5092 北日本航空 日本国内航空 日高 南西航空

JA5092の経歴

1948/09/21 c/n47 タイプ240-1
1948/10/06 N8408H Western Air Lines "Fleet No.808"
  California Air Carrier Service Corp
  Korean Air HL25 (never put in servise) 
1962/09/21 JA5092 北日本航空 (東洋綿花扱い)定置場東京国際空港
1664/04/15 日本国内航空 愛称日高
1967/07/01 南西航空へリース 1968/12/29 リースバック
1969/01/23 抹消登録 売却 N8408H California Air Carrier Service Corp
1971/08 N8408H Texas Instrument Inc. 
1999/12/13 N240HH CAチノ地域空港 この後TII塗装からウェスタンに変更

東京国際空港に無塗装でステイ
撮影1961/12/27  東京国際空港ターミナルビル屋上望遠鏡より 赤塚 薫

 この写真の撮影時期からしてKorean Airに引き渡すために東京国際空港へ立ち寄っただけか、或いは羽田整備場でKorean Air HL25に衣替えするためにステイしているかのどちらかだと思われます。ナンバーが記録によるN8408HからHが抜けているので、別機体と言えばそれまでですが、不注意で書き忘れたとでもしておきましょう。

 この後で、韓国へ渡ったのかどうかは不明ですが、9か月後に北日本航空機として登録されました。(佐伯邦昭)

撮影1962/03/04  東京国際空港 ET


 写真右のターミナルビルの位置からして、12月の時とは場所が変わっているようで、草地の中に他機の邪魔にならないように置かれていたのでしょうか。9月に北日本航空に引き取られるまで、大韓航空以外の航空会社への売込みが行われていたものと推定します。(佐伯邦昭)


2014/07/26  この写真の掲載をもって日本で見られたCV240の全機全社の写真が揃いました

北日本航空 撮影1963/10/09 東京国際空港 geta-o

日本国内航空 撮影1964/12 羽田整備場  geta-o

南西航空 航空情報1967年8月号国内ニュース

 撮影 1999/12/13 CA州チノ地域空港 濱野善行

 機体は軍用電装品を扱うテキサス インストルメンツ社でテストベットを務めていた頃の外観を残しており、オリジナルのノーズセクションとは違う大きめのレドームが付いています。
 レジも変更されていますが、この後暫らくしてからPoFでの野外展示の為に外観をオリジナルに戻し、塗装もデリバリー時のウエスタン航空のものに改められております。 

 

 

 

JA5096 富士航空 日本国内航空 北見   096

JA5096の経歴

1950/09/20 c/n165 タイプ240-26 
1950/10/06 N94276 American Airlines "FLAGSHIP WINDSOR"
  N94276 American Airlines "FLAGSHIP WILLAMSBURG"
1961/09/06 伊藤忠商事が輸入
1961/11/24 JA5096登録 富士航空 定置場東京国際空港
1664/04/15 日本国内航空 愛称北見
1967/11/02 抹消登録 売却 N17418 California Air Motive Corp
1969/12 N17418 AHub Air Sports &. Travel Soc.
1971/02 N17418 Montebello States Bank  (以降消息不明)

輸入後の整備  撮影1961/10/15 羽田整備場 赤塚 薫

 撮影1961/12/03   1号機鹿児島へ  提供 釜谷 明   ファミリーヒストリーより リンク



富士航空 撮影1962/05/06 ET



 富士航空 東京国際空港 撮影1960年代 提供 鈴木一弘 撮影 鈴木氏の父  画像クリックで拡大


 上記写真トリミング前の画像。 前に塗装の異なる同型機が並んでいます。
   詳細は不明です。   画像クリックで悪大
 


富士航空 撮影196212  大分空港 門上俊夫 AIR JAPAN 35号から転載 

整備中のクローズアップ

撮影1962/12 東京国際空港  geta-o

エンジンカウリング全開


エンジン P&W R-2800-CA-18 空冷複列18気筒 2400馬力(2800回転水噴射離昇出力)
プロペラ カーチス電気式定速フルフェザリング 直径13フイート1インチ 3翔 


    
 上記写真で色の説明がありますがカラー写真の追加で同色であることが
 確認できました。 (2021/12/12)



ボンベの窒素ガスは脚オレオ充填ガスとタイヤ圧充填用

エアコンプレッサー

 


日本国内航空 

撮影1964/05頃  高松空港 中井アルバム  富士航空の塗装を残しています

日本国内航空  胴体ラインを変更 撮影 東京国際空港 藤田俊夫 提供JAHS


日本国内航空 北見を記入 提供JAHS



日本国内航空  撮影 大阪国際空港7番ゲート 提供JAHS

 

 

JA5098 富士航空     098 

JA5098の経歴

  c/n53 タイプ240
1948/04/17 N94228 American Airlines "FLAGSHIP ELMIRA"
  N94228 American Airlines "FLAGSHIP ISLE ROYAL"
1962/05/09 伊藤忠商事が輸入7560万円
1962/06/30 JA5098登録 富士航空 定置場東京国際空港
1964/02/27 大分空港でオーバーラン 炎上 
1964/03/12 抹消登録

撮影日不明 大阪国際空港 提供中井アルバム

撮影1962/12/12 羽田整備場 geta-o

 本機は、後2箇月で日本国内航空になるという矢先の1964年2月27日事故で焼失しました。

 当日、鹿児島〜大分〜高松〜東京線で大分空港(旧空港)へ着陸する際に、滑走路端を規定速度を10ノット超過で通過し、接地してからもリバースとブレーキ操作が不十分であったとみられ、オーバーランして裏川の堤防を越え河原に転落し炎上したもので、死者20人、重軽傷者22人という悲惨な事故でした。事故の背景には、中小航空会社の過当競争による無理な運航があり、日東・富士・北日本の合併がより促進されたのです。この写真は、数少ないJA5098の中でも、特にカラーで写された貴重なものです。(佐伯)


、遭難地点に立つ慰霊碑 撮影2008/07/05  大石治生 A8420参照

日替わりメモから転記

○ 富士航空機のレーダーについて

 航空情報1963年12月号「日本のローカル線 その34 高松-大分線」に矢ヶ崎祐司記者が、富士航空のコンベアCV240は「飛行前方120kmまでの気象状態をキャッチできる気象レーダの装備も自慢のひとつである。」と書いています。実際に使っていたのですね。

 なお、矢ヶ崎さんは、富士航空の塗装について「単純でスッキリして好感が持てるが、青も赤ももっと鮮やかにした方が引き立つような気がする。インダストリアルデザイナーの意見を聞いてみたらどうだろうか。」と結んでいます。写真を見るとなるほどと思います。

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JA5110 東亜航空    110

JA5110の経歴

1948/07/09

c/n76 タイプ240 N94238 American Airlines "FLAGSHIP LITTLE ROCK"  

 

N94238 American Airlines "FLAGSHIP LAKE ERIE"

1958/02/24

N94238 Dundella Corporation

 

N94238 Continental Airlines

 

N94238 Beldex Corporation

1962/05

野村貿易により輸入

1962/05/30

JA5110登録 東亜航空 定置場 鹿児島空港 

1964/12/25

定期路線から引退

1965/05/04

東京国際空港へステイ

1965/06/06

売却  Cordova Airlines N51351抹消登録 

東亜航空株式会社絵葉書  提供 林隆一郎

1962年5月 雑誌広告

 JA5110は、東亜航空のCV240の1番機です。 デハビランド ヘロン、同ダブ、ビーチクラフトC-18しか持たなかった東亜航空が、中古とはいえ、本格的な旅客機を導入した意気込みをこの広告に見ることができます。東亜航空は、続いて5機のCV240を導入し、日本の単一の航空会社としては最大のCV240ユーザーになりました。

撮影1963/09 広島空港 佐伯邦昭 以下同じ






通常のCV240の特徴である右側ドア


 本機は、続いて購入した2番機のJA5113とともに、アメリカン航空仕様のCV240の最初期のタイプです。CV240の先導として務めた役割は大きかったと思われますが、その後の3番 〜5番機がカナデアンパシフィック(CPAL)のタイプであるため、次第に使い勝手がわるくなり、実質的な路線運航は2年半くらいに留まりました。そして、やはりCPALタイプの6番機を輸入する際に、外貨割当の交換条件としてアメリカへ売却されました。

日替わりメモから転記

○ 東亜航空のCV240 1番機JA5110

 旧会社の持ち寄りで9機保有した日本国内航空を除けば、東亜航空は延べ6機のCV240を飛ばした日本での単一会社として最大のコンベアユーザーでした。1962年に1番機を輸入すると同時に雑誌に1ページ広告を出して西日本の路線網拡大を誇示していますが、CV240によって有言実行となりました。YS-11が就航するまでの間、CV240は東亜航空の屋台骨を支えたのであります。

 ローカル航空会社で使われた中古の旅客機のためか、日本の航空史上ではあまりスポットライトを浴びませんが、航空界に実に大きな貢献をしていることを見直すべきではないかと思うのです。それは東亜という一会社を越えて、例えば国産旅客機YS-11のエンジンを除く多くの分野でCV240〜CV440のコピーが行われていることなどでも証明されます。

 惜別YS-11の著者坂崎さんは、初めてYSを見た印象を、並べたらコンベアがややずんぐりしているのと、レシプロである程度の違い、コックピットに座ってみると計器や操縦機器の配置も殆ど同じではないか‥と書いています。実際、CV240〜CV440の運行会社からは多くの資料が日航製造に提供されているし、日航製造も実地に寸法を測ったりしているのです。

 CV440は、少しストレッチしただけで基本的にはCV240と同じです。そのCV440を初めて見た全日空の青木英雄さんは「ダブ、ヘロン、マラソン、DC-3にはない新技術がコンベアには絢爛として輝いて見えた」と興奮気味に社史に書いています。

 そうです。アメリカン航空の提案に乗ってカーチスライト、ボーイング、ダグラス、マーチンと並み居る強豪を蹴落として採用されたコンベア社のモデル110(240の原型)は、当時としては洗練された外形をもち、与圧客室、 過給機付きR-2800エンジン、リバースピッチプロペラ、インテグラル燃料タンク、ウエザーレーダー(オプション)等の機能とあいまって40席の経済性が評価され、たちまちにして8つの航空会社から161機の注文を受けたという優秀機でした。

 FAAも、フライトチェッカーとして採用し、日本に度々飛来していることはご承知のとおりです。そういう意味で、技術的にも運用面でもCV240は我が国に大きな影響を与えているのです。日本航空史の中で是非ともコンベアライナーを見直す空気が生まれてほしいと思います。 

 

 

 

JA5112 富士航空 日本国内航空 十勝   112

JA5112の経歴

1948 c/n108 タイプ240-0 
1948/11/14 N94251 American Airlines #FLAGSHIP WILMINGTON"
  N94251 American Airlines #FLAGSHIP MUSSEL SHOALS"
  N94251 American Airlines #FLAGSHIP KNICKERBOCKER"
1962/08/30 伊藤忠商事が輸入
1962/09/27 JA5112登録 富士航空 定置場東京国際空港 
1964/04/15 日本国内航空 愛称十勝
1967/11 売却 N17417 California Airmotive Corp. 
1968/02/07 抹消登録 
1970/07 N17417 U.C.Leasing Division
1970 コンバート CV-640
CF-PWY Pacific Western Airlines

富士航空 撮影1962/10/01 釧路空港 OKUBO

 富士航空のコンベア CV240による路線は、東京ー高松ー大分ー鹿児島、大阪ー新潟、鹿児島ー奄美(酣燈社1964年版世界航空機年鑑)なので、釧路で写されたということはチャーター便であり、多分、北海道への路線展開の野心を込めてのことと思われます。もちろん実現はしませんでした。

撮影1962/10/27 赤塚 薫


日本国内航空 撮影1965/11/03 入間基地航空祭 PAPPY


日本国内航空 撮影1966~67頃 旭川空港  イガテック

引退前の撮影 東京国際空港 geta-o

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JA5113 東亜航空  113

JA5113の経歴

1948/07/24 c/n85 タイプ240 
1948/08/03 N94238 American Airlines  "FLAGSHIP AHEVELAND"
  N94238 American Airlines "FLAGSHIP MONTECALLO"
1960/04/11 N94238 Brown &.Root Inc.
  N333N Continental Airlines
  N333N Beldex Corp.
1962/10/29 東京国際空港に到着 野村貿易扱い
1962/11/16 JA5113登録 東亜航空 定置場鹿児島空港 
1962/11/17 野村貿易から東亜航空に引渡し
1963/02/20 全日空にチャーター  大阪〜宮崎〜鹿児島線に就航 ( 3月末まで)
1968春以降 広島空港で部品取り状態
1970/12/11 抹消登録 
  広島県チチヤスハイパークに展示
  解体撤去
1990/02 エンジンとプロペラ1基 広島県立広島工業高校教材

全日空にチャーター  撮影1963/02/21 東京国際空港 赤塚 薫


全日空空輸株式会社の社報第49号(1963年3月発行)

東亜航空機で大阪〜宮崎〜鹿児島線増便
 当社は、本格的な観光シーズンに入った南九州宮崎、鹿児島線の旅客増加に備えるため、提携会社である東亜航空のコンベア240型機をチャーターし、2月20日から3月末まで大阪一宮崎一鹿児島線に毎日1往復増便することとなった。これにより、上記路線は現行2便から3便により、乗客の利便も大幅に増大することになる。なお、同機には全日空の社名マークが書き入れられスチュワ−デス
も当社のユニフォームを着用する。


撮影1963/09 広島空港 佐伯邦昭
 

撮影日不明 広島空港 中井アルバム



撮影1971/05/16 チチヤスハイパーク 佐伯邦昭


P&W R-2800エンジンとプロペラ 
 
撮影2002/10/23 広島県立広島工業高校 機械科実習室
 

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JA5118 東亜航空    018
1948/10/26 c/n95 タイプ240-3  N90846 Continental Air Lines
1955/02/16 CF-CUW Canadian Pacific Air Lines "Fleet No.393"
1963/09/04 野村貿易により輸入
1963/09/12 JA5118登録 東亜航空 定置場広島空港
1967/09/30 東亜航空定期路線から引退 
1971/04 広島空港から南紀白浜空港へフェリー
1971/05/28 抹消登録 昭和観光開発株式会社所有 空港内又は隣接地に設置
1972年の写真では 展示のみのようである
不明 東牟婁郡古座町姫の国道42号沿いドライブイン姫へ移転
1980年の写真では 両側にタラップを取り付けてヒコーキ喫茶を営業している
不明 撤去解体

撮影1963年 秋頃 鹿児島鴨池空港 提供松本秀典 (前列の坊やが秀典さん)


その他の写真は南紀白浜空港とドライブイン姫

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 120 

JA5120 日東航空 日本国内航空 愛宕 

JA5120の経歴

  c/n177 タイプ240-25
  PK-GCH Garuda Indonesian Airways  "KUTILANG"
1952/12/25 N1014G Gweneral Dynemics Corp. Vonvair divi.
1963/08/24 JA5120登録 日東航空 定置場大阪国際空港
1964/04/15 日本国内航空 愛称石狩
1967/11/20 抹消登録 
1967/11/25 N17419 California Airmortive Corp.
1969/10 N17419 Tradwinds Aeromotive
  CV340-58に改造
YU-ADB JUGOSLOVENSKI AERO TRANSPORT
http://www.airliners.net/search/photo.search?regsearch=YU-ADB

撮影1963/10/13 大阪国際空港 Twinbeech

撮影1963 中井アルバム

日本国内航空 撮影1967/04/29 羽田整備場 PAPPY

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JA5125 日東航空 日本国内航空 陸中 南西航空  125

JA5125の経歴

1948/07/25 c/n73 タイプ240-3
  N90844 Continental Aielinens
1952/12/25 CF-CUU Canadian Pacific Air Lines "Fleet No.391"
1963/12/25 JA5125登録 日東航空 定置場 大阪国際空港
1964/04/15 日本国内航空 愛称陸中
1967/10 日本航空を経由して 南西航空へ貸出し 
1968/12/13 抹消登録 
1968/12 N90844 Air Service Inc.

日東航空 1963年日本到着直後の撮影 大阪国際空港 R.Nakajima 

この写真を日本到着直後の撮影とした理由

日東航空があらかじめ用いていた宣伝写真 航空情報1963年11月号の広告


参考 CPALの標準塗装 ダグラスDC-3の例


胴体と尾翼のラインがCPALカラーであり、機体を見る人物の様子も初見を伺わせる


以下、日東航空時代の胴体ラインもCPALのものを残していると思われる

日東航空 撮影 大阪国際空港 中井アルバム

 
       拡大 着色 (佐伯邦昭)
      

日本国内航空 大阪国際空港 R.Nakajima

 旅客機に初めて乗った思い出の記録 1965年夏 HSC-M







南西航空(JDAへリースバックで東京へ帰還していた) 撮影1968/06/28 東京国際空港 geta-o

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JA5126  東亜航空    126

JA5126の経歴

1948/09/07 c/n94 タイプ240-3 
1948/10/09 N90845 Continental Airlines
1953/03/19 CF-CUV Canadian Pacific Air Linees "Fleet No.392"
1964/02/22 JA5126登録 東亜航空 定置場 広島空港 
1971/05/13 抹消登録 

撮影1964/09/30 広島東亜航空格納庫 佐伯邦昭


撮影 大阪国際空港 中井アルバム


撮影 広島空港 提供JAHS

下関市前田(壇の浦) レストランみはぎ屋上にあったコンベア CV240

撮影時期不明  元記号と所属も不明 大平昌美


元写真                                     国土交通省1974年
 

撮影1974/08 日本飛行機連盟 ヒコーキ野郎 1974年12月号より 転載許可済み

@ 胴体の文字はサンデン航空(サンデン交通の航空機部門)
A 胴体の帯が太い紺色の単線
B 搭乗口が右側
C 前照灯とピトー管が機首先端についている

以上のことがわかりましたので、消去法で問題点を整理してみます。

@は単なる展示用看板ですから問題外
Aの紺やブルーの単線を入れたコンベア機は全日空のCV-340とCV-440が該当しますが、CV-240には見当たりません。
 ただ、東亜航空の紺・赤・紺の胴体ラインを1本にまとめると、ちょうどこの太さに合ってきます。
  
更にBとCが大きな特徴となりますので、日本国内で飛んでいたCV-240の形状を次表のように分類してみました。

分類 コンベア社形式 JA記号 搭乗口 前照灯 機首先端形状
A 240-0 5110
5113
前方右 前輪脚柱 3本の細い棒
B 240-1 5087
5088
後方 前輪脚柱 3本の細い棒
C 240-3 5118
5125
5126
5130
5131
前方右 機首先端 3本の細い棒
D 240-14 5068
5069
5092
前方右
92のみ後方
前輪脚柱 3本の細い棒
E 240-26 5096
5098
5112
前方右 前輪脚柱 何もない
F 240-23 5120 前方右 前輪脚柱 3本の細い棒

 これによってBとCに該当するのは分類Cの5機だけになりました。
 BとCに該当するの分類Cの5機のうち、まず5125が南西航空で使用後に米国へ行ってい るので消えます

 残った5118、5126、5130、5131のいずれも東亜航空の4機について航空史探検博物館で確認していきましょう。

日本国籍 形式 製造番号 所有 抹消日 抹消後
JA記号 登録日
5118 63/09/12 -3 95 東亜航空 71/05/28 和歌山県ドライブインで解体
5126 64/02/25 -3 94 東亜航空 71/05/28 可能性大
5130 64/06/25 -3 97 東亜航空 71/07/02 富山→岐阜→静岡→三重県鈴鹿市
5131 64/10/28 -3 96 東亜航空 71/05/13 東京新宿で展示との情報あり

5126 結局、この機体が残りました。

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JA5130 東亜航空   130

 

東亜航空コンベアCV240 JA5130の生涯へ転記

      

 

 

JA5131 東亜航空     13130
1948/09/01 c/n96 タイプ240-3 N90848 Continental Airlines
1948/10/28 N90847 Continental Airlines
1953/03/03 CF-CUX Canadian Pacific Airlines "Fleet No.394"
1964/10/28 JA5131登録 東亜航空 定置場広島空港 (JA5110の代替として購入)
1964/11/01 広島空港に到着
1971/05/13 抹消登録
  新宿歌舞伎町Joy Packビル屋上に展示 (展示期間不明)

東亜航空
 撮影1966/10/23 大阪国際空港 geta-o


1965/09/19  広島空港まつり  撮影幸田恒弘


同じく 撮影佐伯邦昭



広島空港 撮影1968/03/26 T67M

 

Joy Packビル 雑誌の切り抜きから借用 心当たりの出版社はご連絡ください

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調査研究 3社合併当時から末期までの日本国内航空CV240の塗装について   調

1 3社合併当時の日本国内航空の塗装について  解説 佐伯邦昭

撮影1964/05/01 東京国際空港整備場 赤塚 薫   

 1964年4月15日、ローカル航空会社3社が合併して日本国内航空株式会社が設立され、日東航空株式会社、富士航空株式会社及び北日本航空株式会社の事業を統合継続することになりました。

 合併時に保有していた旅客機は、次のとおりです。

・ コンベア CV240 9機
・ ダグラス DC-3  2機
・ デ ハビランド DH-114 ヘロン 2機
・ グラマン マラード  4機
・ ノール NORD262   2機

 全日空がバイカウントやフレンドシップを飛ばしていた時期に、何とも貧弱なラインナップです。もちろん合併を主導した行政のバックアップもあってすぐにCV-880や国産旅客機YS-11を手当してタービン化を進めることになりますが、当面はこれでいかざるを得ませんでした。


 この写真は、合併から半月後の1964/05/01に羽田で撮影されました。主力のコンベアCV240が3機肩を並べて休んでいます。面白いのは その塗装です。

 日東、北日本、富士の社名と社章を消して、客室窓の上に日本国内航空と書き入れながら、胴体と尾翼のラインだけは未修正という、新会社発足時の応急処置が見られることです。
 

邪道ですが、色を再現してみます。

JA5125 日東カラー

 日東航空は、赤い3本のトリムラインの上にNITTO AIR LINES、尾翼には飛翔する鶴とNALを配した大きなマークを画いていました。ただ、CV240の所有が、JA5120が1963年8月から、この5125が同12月からと短いのであまり写真がありません。両機で大阪〜新潟や徳島〜東京など準幹線を狙っていたのですが、その購入が会社の足を引っ張ったともいえます。

JA5068 北日本カラー

 日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史で述べているように、北日本航空は、ハワイ航空のDC-3を購入するとともにDC-3とCV240を全機ハワイアンカラーに塗り替えました。胴体には赤でNORTH JAPAN AIRLINES 北日本航空、尾翼赤線にはFly (上)、NJA(下)を白抜きで入れていました。

JA5112 富士カラー  

 富士航空も、胴体にFUJI AIR LINES、尾翼に富士航空と入れていました。また胴体の赤青のトリムラインが後方でカーブするあたりに社章が入っていたのが塗りつぶされています。


  いずれも、どうみてもセンスのないぶざまな塗装になってしまい、社員が常に目にする航空機のデザインがこうもバラバラでは士気に影響することでしょう。
 日本国内航空は、間もなく青赤のトリムラインと赤い社章のJDAカラーに塗り替えましたが、旧3社の職員さんたちがこの先仲良くやっていけるのかどうか、いろんな意味合いを感じさせる歴史的に非常に貴重な写真です。

 

2 その後の日本国内航空塗装

 合併後1,2年後でも統一した塗装にはなっていません。PAPPY

JA5069 愛称土佐 撮影1965/07/11 元北日本航空 比較的にJDA正規塗装に近いと思われます。



JA5087 愛称記入なし(のちに津軽) 撮影1965/08/17 元北日本航空 合併1年以上たっていますが北日本航空カラーがまだ残っていた様です。


JA5112 愛称十勝 撮影1965/11/03 元富士航空 入間基地航空祭に展示されました。 機首レドームがあるためにラインが富士航空仕様です。色はJDAカラーと思います。


JA5120  愛称石狩 撮影1967/04/29 元日東航空 羽田整備場裏手に駐機していた時のもの。JDA正規塗装になっています。


ナンバー不明 撮影1968年頃 いつまで使われていたのでしょうか、がこれから売却先の塗装に塗り替えられる準備でしょうか、塗装を剥がされ窓もマスキングされています。

3 日本国内航空末期における正規塗装 撮影geta-o 

JA5092 愛称日高 (この後1967/06 南西航空へ貸出)


JA5112 愛称十勝 機首レーダー付き (この後1968/02 アメリカへ売却)

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FAA 東京飛行検査事務所のコンベア CV 240    FAA 


 占領下の飛行検査業務は、米軍のMATS AACS(Airways And Communications Service)がダグラスAC-47Dなどで実施し、1962年8月28日に米国連邦航空局(FAA)がこれを引き継ぎ、立川基地に東京飛行検査事務所を設けました。

 FAA東京飛行検査事務所においては、コンベアCV240を2機常駐させ、日本側に全面移管する1967年4月1日まで業務を行いました。
 
 因みに運輸省航空局は、1962年4月1日にダグラスDC-3JA5100ちよだ号によって検査業務を開始しますが、一本立ちはできず、FAAのコンベアCV240に頼らざるを得ませんでした。航空局の検査要員も立川基地とオクラハマのFAA施設で研修を受けています。

 記録によれば、1962〜1965年にかけてFAA、米国商務省、米国大使館から日本政府に早急に飛行検査業務を引き継ぐよう矢の催促がありましたが、完全移管は、YS-11が2機そろった時点の1967年4月1日まで 延びています。

CV240 N251

N251の経歴

1953/10/26 c/n345  USAF ET-29C 52-1106
  FAA 日本で運用
1967/03/31 日本での運用終了 その後の消息不明

撮影1964/01/15 CV240 N251 大阪国際空港 Twinbeech


撮影1966/06/01 CV240 N251 板付基地 門上俊夫

 

CV240 N252

N252の経歴

1954/02/18 c/n367  USAF ET-29C 52-1128
  日本で運用 FAA
1967/03/31 日本での運用終了 その後の消息不明

撮影1965 立川基地三軍統合記念日 なべさん

撮影1966/02/28 厚木 ハッチ  写真文章ともChcker Tale bbs 3433から転記


 
厚木01カドから好天気に恵まれると富士山を背景に撮ることができました。通常の着陸位置はもう少し富士山より高いのが定番も、FAAによる検査なのでしょう、低い進入です。

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