茨城県ひたちなか市にある ひたち海浜公園はネモフィラ、コキアやコスモスなど自然豊かな公園として知られていますが、戦後は水戸射爆場として 米軍基地から訓練で飛び立った戦闘機や爆撃機が対地射撃や爆弾投下訓練を実施していた場所です。
撮影 2016/10/29 イガテック
現在の公式ページ (リンク) ではこのことが全く書かれていません。
しかしながら公園内施設に当時のことがわかる資料館があり当時のことを忍ぶ資料を見ることができますので紹介します。
尚、今回の記事を書くきっかけは「安田潤平さんのアルバムから」丹羽八十氏さん投稿記事 内に下記の写真があり、小林実さんからこの爆弾についての推測の話がありました。
撮影日、撮影者不明 浜松基地
上記写真拡大
『「浜松基地、撮影日、撮影者不明 … 基地公開時の撮影と推測」 とある
F-100Dの写真、期待の手前にある無造作に沢山積み上げたのは小型の爆弾
のように見えますが、使用済みの訓練用の爆弾でしょうかね。 「釣り物」と云うのだそうですね。 使用済みの訓練弾 とは言え、あんなに無造作に積んであると..』 小林実
という小林さんからの投稿で 以前 ひたち海浜公園に行った際に撮影した写真を交えて紹介します。(イガテック)
ひたち海浜公園 資料館展示
ギャラリー開館に向けて ごあいさつ 国営常陸海浜公園事務所長 大日方尚巳
射爆場概要地図 パネル展示
旧陸軍水戸東飛行場 航空写真 1941年2月 パネル展示
射爆場位置説明図 パネル展示
当時の航空写真から標的等がはっきり見えます。
標的と滑走路 航空写真 1960/05/23 国土地理院航空写真より引用
歴史
旧陸軍水戸東飛行場及び米軍射爆撃場の時代
展示パネル書き写し
1909年 水戸歩兵第二連隊が前浜海岸で実弾射撃訓練を実施。 以降、陸軍の
定期的な実弾射撃練習場所として使用が始まる。
10キロも砂浜の海岸砂丘が続き人家もないという当海岸部は大砲などの射撃練習の絶好の敵地であった。 大正3年の前渡村の予算には軍隊歓迎費が計上されている。
1933年頃 非常時熱の高まりを受けて、この地、前渡村への飛行場誘致が行われている。
1936年5月 陸軍航空隊が海岸に設けた標的に対し爆撃訓練を実施
1937年5月 水戸陸軍飛行学校の設置が決定
1938年2月〜5月 地元説明、用地買収(750ヘクタール、立ち退き 24戸)
1938年8月 工事着手
1939年10月 水戸陸軍飛行学校開校。
1943年8月 水戸陸軍飛行学校が移転し、戦闘飛行の実践訓練を目的とした明野陸軍飛行学校分校となり、翌年には常陸教導師団として特別攻撃隊の要員教育の場となった。
1945年8月 終戦
1946年6月 占領軍が爆撃演習場として旧水戸飛行場跡地を接収
1952年7月 日米安全保障条約の発効に伴い、米国空軍の対地射爆場となる。
射爆撃場の一部は自衛隊が使用
1971年6月 在日米軍の射爆撃演習の停止
1973年3月 水戸射爆撃場変換
返還運動
返還前には誤爆などがあり地元住民の返還要求活動などがありました。
当時の映像が茨城県よりYouTubeで紹介されています。
水戸射爆場返還運動【茨城県の記録映画より】 Youtubeリンク
展示品紹介
250kg爆弾 撮影 2016/10/29 イガテック
ロケット弾 撮影 2016/10/29 イガテック
スキップ弾 撮影 2016/10/29 イガテック
展示室では射爆場として利用していた当時の映像紹介が流されていました。
今回 ひたち海浜公園の施設にある資料館の紹介を行いましたが、 水戸射爆撃場跡地は公園以外に 安全運転中央研修所が1991年に設置されています。
海岸線も当時とは異なりJERA 常陸那珂火力発電所や港湾施設が作られ当時の海岸の面影が無くなっています。