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写真で見る東京国際空港の歴史 History of Tokyo International Airport seen with a photograph


1962年 全日空Vis828 F-27 藤田航空F-27 富士航空CV240
 
 
国内線ジェット旅客機の売込み競争激化
 
 


〇 1962年10月の東京国際空港

 見学デッキから遠景を切り取ってみますと全日空のハンガーが3棟と藤田航空のハンガー1棟があり、バイカウント、DC-3、ヘロン、ビーチクラフト18が駐機しています。手前には、気象観測の百葉箱が二つと、オールドタイマーの懐かしい風景が広がっていますね。

 

撮影

全日空のバイカウントとフレンドシップ 3

 全日空のローカル線用のフォッカー F-27 フレンドシップ、幹線用のバイカウントは1961年に相次いで東京国際空港へ到着し、F-27はダグラスDC-3と交替してローカル線のジェット化(ビームラインと命名)、バイカウントはコンベアCV440と共に東京〜大阪 〜札幌 〜福岡線に就航して、国際線から払下の日航ダグラスDC-6Bから乗客を奪うことになります。

 また、1962/09/23、全日空初の国際線となった鹿児島〜沖縄線に就航しました。(沖縄は外国であり、FAAと米軍の許可を得ての週2便の運航)
 更に、沖縄線開設の後も、韓国金浦への臨時便(CV440)、ハバロフスクへの臨時便(バイカウント)などで国際線への経験を積んでいきました。
 

ビッカース バイカウント Viscount 828

B-1 全日空購入1号機 JA8201 撮影1962/03/04 ET


B-2 Aランへ進入するJA8210 海老取川の水上から撮影 1963/03/19 赤塚 薫


B-3 JA8203 撮影日不明 にがうり



フォッカー F-27 フレンドシップ

B-4  F-27-224 JA8602 
国際線ターミナルと新管制塔建設工事の状況から1963/03頃の撮影か  にがうり







B-5 全日空フォッカー F-27 フレンドシップ 1963年後半の撮影か  にがうり


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4 藤田航空のフレンドシップ 4

 1961/06/11に日本遊覧航空から名称変更した藤田航空株式会社は、引き継いだヘロン4機、ダブ2機(3機中JA5023は中日本航空へ)に加えて、新たに丸紅を通じてPasific AirlinesからダグラスDC-3を2機買う予定でしたが、中途でフォッカー F-27の購入に切り替えました。

C-1 フォッカー F-27-223 フレンドシップ PH-FOS→JA8608


 この英字誌(1962/08)によると、藤田航空は更にF27-200系を揃えるとしていますが、既に経営は行き詰っており、 1962年12月には藤田航空の経営権を全日空に譲渡するとの覚書が取り交わされ、翌1963年11月1日に吸収合併されたので、藤田カラーは、この1機のみに終わりました。

JA8608の経歴

 

c/n10203 F-27-223 PH-FOS

1962/07/27

JA8608登録 藤田航空 定置場東京国際空港

1963/11/01

全日空

1971/11/29

抹消登録 インドネシアへ売却 PK-PFU

C-2 JA8608 撮影日不明 東京国際空港 提供中井アルバム


C-3 ハンガーの文字が日本遊覧航空から藤田航空に変更されています。右端


  富士航空のS-62とCV240  5

D-1 シコルスキーS-62A撮影01/05 東京国際空港 赤塚 薫

詳細は航空歴史館ゼロ三つのシコルスキーS-62A JA9000ナンバーの先駆け争い参照

D-2 コンベアCV240 JA5096 撮影1962/12 geta-o

詳細は日本のコンベアCV240 JA5096 参照

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8 航大のビーチクラフトD18Sなど 8

G-1 航空大学校 ビーチクラフトD18S JA5010 撮影1962/03/04 ET

ボルカ―キットによる改造後の消息 A2601  参照


G-2 放置状態にも見えるリパブリックR3Cシービーとエルクーペ415
                                                                               撮影1962/08/12 Twinbeech  




G-3 日航オペレーションセンター前のダグラスDC-6B JA6206 City of Nagoya
                      格納庫の中にCV880   撮影1962/03/04  ET 


 

日替わりメモから転記

堂々たる風格の外車 1951年型ポンテアック Pontiac

 日航オペレーションセンターの前に止まっている外車がとても懐かしいので拡大しておきました。クルマに詳しいかつおさんから、それは1951年型Pontiacマニアはポンテと略しただよと、同じ頃の高知空港でマラソンを写した写真と共にお知らせを頂きました。

 

 輝いていた1950年代のアメリカ乗用車の代表作の一つですね。10年経っても飛行機に負けない風格が何とも言えない雰囲気を醸し出しています。高知空港の左の車は日野ルノーです。

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10 国内線ジェット機の売込み競争 1-2

10 国内線ジェット機の売込み競争 勝者はボーイング727

 日航と全日空は増加する乗客への対応に国内線ジェット機の検討を開始しこれに呼応して62〜63年には各メーカーの猛烈な売込み合戦が展開されました。その勝敗の概略は次のとおりです。

  候補にあがった機名   選考の概略
BAC-111 試験飛行中の事故で脱落
シュド カラベル10A 100席未満のため脱落
ダグラス DC-9-10 100席未満のため脱落
YS-11 国策により別途選考
ホーカーシドレー トライデント1C 1F 最終選考に残ったが、727に納期や着陸性能等で劣るために脱落
ボーイング727-100 トライデントよりも高価だが、諸性能が上回ることで決定

10-1 当時の各社雑誌掲載広告

  

  

  

 日航、全日空は、期せずして最終選考にトライデントとボーイング727が残り、1963年末に相次いでボーイング727を採用する気運となりました。その後、ホーカーシドレー社がトライデントの大幅値下げで攻勢をかけたものの、運輸省が両社共通の機種が望ましいとしていたこともあり、1964年1月13日に両社の協議が整って、ボーイング727に正式決定したものです。

10-2 シュド カラベルの売込み 

撮影1962/05/13 シュド カラベル F-BJAO サンタマリア号 geta-o


 短距離ジェット機売込みのトップを切って日本に飛来したカラベルですが、既に製造から7年も経っており、一面で日本国内のジェット化が遅れていることを関係者に認識させるきっかけにもなりました。F-BJAOは、SUD210-3型のエンジンをRR-エイボンからGE-CJ80ターボファンに換装しています。

10-3 ボーイング727の売込み

撮影09/23 ボーイング727製造3号機 ユナイテッド航空納入初号機 N7003U 赤塚 薫

 ボーイング社が、ユナイテッド航空向けのN7003Uを使って世界一周宣伝飛行の途次に東京国際空港へ寄ったものです。  航空歴史館総目次R114参照


10-4 ホーカーシドレー(デハビランド) トライデントの売込み 

撮影1963/10/09 DH-121 トライデント 1C BEA  G-ARPE geta-o


(販促写真) 航空史の思い出3-10参照
 
 ホーカーシドレー社は、日本国内で10月9日から1週間にわたってデモフライトを行うなど熱意のあるところを見せましたが、結局は、同じ3発リアエンジン形式のボーイング727に破れました。

 ボーイング727を選んだ理由を、全日空技術調査団(神田好武団長)の報告書から抜き書きしておきます。

・ 高揚力装置を持つため、短い滑走路でよい。
・ P&W JT8D-1が特に727用に開発されている。商用機向けエンジンとしては初めて。
・ 操縦系統が油圧、電気、手動で安全性に優れている。
・ 内外の防音処理が優れている。
・ APUを内蔵している。
・ 装備品の品質精度が高く、部品補給体制が組織的でケアが十分に期待できる。

10-5 乗り遅れたBAC111(ワンイレブン)の後年の売込み 

 BAC111は、1963年秋に全日空技術調査団が訪英中に事故を起こしたため、早々と脱落しましたが、その後1965年に米国でボーイング727の事故が3件立て続けに起きたこともあって、再度日本への売込みを開始しました。

 アジア・オーストラリアへの販促飛行の中で1966年2月15日に東京国際空港へ飛来し3日間招待飛行などを行いましたが、日本では同クラスのダグラスDC-9には勝てませんでした。

撮影1966/02/18 BAC111-400 G-ASYE geta-o

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