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航空歴史館

岸一太氏の赤羽飛行機工場 とつるぎ号

航空史探検博物館 東京都北区

北区飛鳥山博物館赤羽飛行機工場資料

 

航空歴史館 岸一太氏の赤羽飛行機工場とつるぎ号

航空史探検博物館 A3617-1  東京都北区王子一丁目 北区飛鳥山博物館 赤羽飛行機工場資料
                 Kitaku Asukayama Museum, Kita-ku,Tokyo

第三つるぎ号

第三つるぎ号 (北区飛鳥山博物館所蔵 掲載許可済)


赤羽飛行機工場内の第三つるぎ号 (北区飛鳥山博物館所蔵 掲載許可済)

赤羽飛行機工場

1919(大正8)年発行の工場通覧 船舶車輌製造業より (北区飛鳥山博物館所蔵 掲載許可済) 

赤羽飛行機工場の外観 (北区飛鳥山博物館所蔵 掲載許可済) 


赤羽飛行機工場内部 (北区飛鳥山博物館所蔵 掲載許可済) 


給与発令書 (北区飛鳥山博物館所蔵 掲載許可済) 

赤羽飛行機工場開場記念品 撮影と文 ET

以前、小学校の同級生が引越す時くれた古い記念切手や絵葉書の中に、写真にある円形のコースター様の物がありました。形状は、直径約6p、紙製・円盤状・円周がアルミで補強されています。貴重な物なので北区飛鳥山博物館に寄贈しました。



  

  表面には桐紋の内部に「つるぎ」の名称があり、「つるぎ号」に搭載したルノー80型エンジン正面部分をあしらった部分に、プロペラを6穴、ボルトで取り付けたような表象が見られます。また、「大正六年十二月」と表記されており、その下に「赤羽飛行機工場開場記念」と明記され、これら全体を月桂樹状のデザインで囲んでいる。

 裏面には円内に「つるぎ」「□珠鋼」「赤羽飛行機工塲」と表記されている。□の部分は判読不能ですが、特という字にも見えます。また、工塲の塲はおもて(場)と違う字が使われていますが、当時の新聞記事には飛行塲が用いられています。

 全体の形状からコースター様のものと見受けられ、赤羽飛行機工場開場時の記念品として配布されたものと推測されます。 

参考 岸一太氏の赤羽飛行機工場とつるぎ号について

                  山口県航空史研究会 古谷眞之助著『山口県の航空史あれこれ』から抜粋

                                                      (書評 山口県の航空史あれこれ 参照) 

つるぎ号、県都山口を飛ぶ

 ライト兄弟の初飛行から13年後の大正5年(1916)9月17日午前10時30分、山口市宮野のの桜島錬兵場(現陸上自衛隊山口駐屯地演習場)から井上騎兵中尉の操縦する「つるぎ号」が飛び立った。この飛行は、残念ながら県下初の動力飛行ではなく県下第三番目の飛行たったが、国民飛行会(後の帝国飛行協会)が主催したという点で、県下初の本格的飛行会だったと言ってよいだろう。

 つるぎ号を製作したのは、東京で耳鼻咽喉科を開業していた岸一太博士で、彼はドイツ留学学時代に金属合金技術も学び、医師の傍ら富山県の剣山にモリブデンの鉱脈を発見し、これを事業化して熱に強いエンジンを製作した。と言っても、エンジン自体を開発したのではなく、エンジンはフランスのルノー式70馬力のコピーであり、これの部品のみを強化したのである。
 当時エンジンの信頼性は非常に低く、新聞記事には「寿命は90日くらい」とある。現在のエンジンのオーバーホール間隔は飛行時間数で決められており、この90日という寿命の計算方法はいかにも漠然としたものだが、いずれにせよ極端に短いものだった。

 特に摩擦の生じる部品の強度に弱点があったのは容易に推測できる。その部分に高い強度を持つモリブデン合金を使用して、一気にオーバーホール時間を延長させたものだったのだろう。機体価格は当時のお金で2万数千円、エンジン価格は1万3千円だったと言うから、エンジンがいかに高価なものであったが分かる。

 ついで岸博士は機体の製作にも取り掛かり、柳井市出身の宗里悦太郎を主任設計者として、岸式第1つるぎ号を完成した。初飛行は山口での飛行のわずか2ヶ月前、大正5年(1916)7月1日だった。彼はそれ以降、第5つるぎ号まで製作するが、もちろん機体の名前は剣山に由来する。

 ややゴシップめくが、岸博士の夫人はドイツ人で、彼女の存在年彼が飛行界から身を引く一因ともなっているのだが、本題とは離れるので、ここでは深くは触れない。

 つるぎ号の主任設計者宗里は、その後神奈川、千葉で第一飛行学校を主宰し、多くパイロツトを育てた。特に女性パイロットを育成したことで知られている。かつてNHKのドラマに「雲のじゅうたん」という番組があったが、あの主人公は木部シゲノ、及位野衣(ノゾイヤエ)の両女性パイロットをモデルにしていると言われており、いずれも宗里の教え子である。
 彼の生家と墓は、柳井市伊保庄福井に現存している。

 (中略)

 さて、岸博士は飛行機を完成させると、国民飛行会に機体の供与を申し出た。発足まもなく、まだ専用の機体を保有していない国民飛行会はこれに飛びついた。飛行機普及に情熱を燃やす長岡外史会長は、直ちに各地での飛行大会を計画した。その頃すでに民間のパイロットたちが有料で飛行大会を各地で開催してい
たから、彼らの開催地は、まだ普及の進んでいない山陰地方を皮切りに開始された。松江、米子、浜田で実施し、それから山口入りしている。移送は基本的に鉄道に拠ったが、浜田からは機体を分解して荷馬車12台で夜間、山口に運び込んだ。 
 
 長岡にしてみれば、県下での飛行大会は、まず県都山口、続いて自身の出身地萩、そして生誕地下松と、故郷に錦を飾る意味も当然あったと思われる。事実、県都山口での開催時には夫人を同伴してもいる。しかし、彼が切望した下松での飛行大会は滑走路の問題から断念せざるを得なかった。(佐伯注 山口市宮野のの桜島錬兵場での飛行は成功)

 新聞記事、その他資料によれば、第1つるぎ号の諸元は以下の通りであるが(一部推定)、もともとこの機体は、純国産機とはいえフランスのモーリス・ファルマン機のコピーであり、これに若干の改良を加えたに過ぎない。ただし、我が国航空黎明期の飛行機は、ほとんどが直接輸入機かコピー機であった。 

参考 赤羽飛行機工場とつるぎ号の終焉

 上記第一つるぎ号及び第二つるぎ号は、東京都明石の病院構内で製作し、赤羽飛行機工場では第三〜第六つるぎ号を製造しています。以後、恐山の鉱山事業が失敗して多額の負債を生じ、火事で機体を失ったり、旧式のモ式のコピーも時流に乗らなくなり、1921(大正10)年3月に工場及び赤羽飛行場を閉鎖し、岸氏は東京市電気局の理事となって航空界を去りました。

                                 1980年出版協同刊 日本航空機総集諸社篇より

 

2012/06/13 陸上自衛隊八尾駐屯地広報展示室の木製プロペラの疑問

 陸上自衛隊八尾駐屯地広報展示室のプロペラの説明に「昭和20年終戦間際に特攻製作された飛行機剣のプロペラ」とありますが、剣のプロペラは、金属製のハミルトン定速3翔ですので、説明は明らかに間違いです。

 「つるぎのプロペラです」と言って持ち込まれた際に、展示室の係員の頭に「キ115剣」の知識しか無く、敗戦間際の特攻機なら、木製のプロペラも有り得るだろうという思い込みがあったのではないでしょうか。

 精密な検証が必要ですが、状況からみて、赤羽飛行機工場製つるぎ号のプロペラの可能性が大であると考えられます。(2012/06/13 佐伯邦昭)

撮影2010/10/23 GUNDUMZAK
           

2012/10/16 現物を観察しての感想 はねぶた

撮影2012/10/06  はねぶた


 初見の瞬間「小さい」と思いました。

 8枚積層で8穴の取付孔があります。中心付近に小さな刻印にも見えるものが二つありましたが判読不能でした。(右はPPか)
 
 劣化の度合いは、古い木像や木造建築物の肌合いに近い感じです。収縮による貼り合せ部分の剥離も進んでおり、積層枚数の確認は容易でした。ここに展示されるまでの保管状況が不明なので、見た目の劣化度合いから時代を推定するのは難しいと思います。

 持参した巻尺で大まかなところを見てみると、中心から先端まで1.3m位でした。先端が少し欠けや摩滅で損なわれていますが、数値が大きく変わる程ではありません。最大コードは20cm超といったところです。栄エンジンの直径に対して小さすぎる気がします。

 何より、零戦にしろ隼にしろプロペラ直径は3m前後の数字です。同型エンジンに直径2.6m程度ではエンジンの出力に対して小さすぎるのは明らかです。試作機は木製二翅固定ピッチだった、試験的に装備した…という可能性も、「だとしたらもっと大きいモノのはず」で、開発者の述べている通り同型エンジンの隼から予
備品のプロペラを転用したという話と併せて「このペラがキ115に装備された可能性は無い」と言って良いでしょう。

 そばに居た説明役の若い隊員(階級は曹以上)は「特攻機剣のプロペラで末期の資材難と未帰還前提のため木製」といった趣旨の話を繰り返していましたが、話を聞いてみるとやはりそう教えられているだけで内容が正しいかどうかは判らないようでした。特攻機剣云々はまず間違いだと云ったところ、広報に話すとは言ってくれました。


 さて、つるぎ号のほうですが、私の知識は今のところヒコーキ雲に拠るものだけです。

 掲載されている一部の写真とコースターの図柄には、前縁部がカーブを描く特徴的なブレード形状と、端部前後縁に連続する保護材のような物が付いているように見えるプロペラが見られます。少なくとも、八尾の展示品にはそのような特徴的な形状も、前後縁の保護部材らしきものの痕跡も見られません。特に端部の形
状は、もう少し後の時代ではないかという気もします。また、コースターの絵が正確なものだとしたら取付孔の数が合いません。

 つるぎ号の全機が同じようなプロペラを付けていたのかどうかも、私にとっては不明ですので、受けた印象を持って結論じみたことは言えませんが、「展示品は恐らくつるぎ号のプロペラである」とも思えなくなりました。私にとっては現在「八尾に来歴不明の木製プロペラがある」といったところです。

 現物を見た他の方の推論や周辺の研究からどのような話が出るか、ヒコーキ雲に集まる情報に期待しています。