F-7 個別機体解説 JA5039
八丈島でバンガローに
JA5039の製造番号・形式・主な経歴 形式 c/n3253 DC-3-201E(イースタン航空タイプ ライト サイクロンGR-1820付 左ドア) → DC3A-S1C3G(ツインワスプR-1830) 1940/10/23 Eastern Air Lines NC19969 "367" 19**/*/* A. J.Leaward N19969 19**/*/* Transe International Airlines N86C 1957/3/23 日ペリ航空 JA5039
04/17羽田到着 04/19引渡し 04/20東京〜小倉線就航1957/12/1 社名変更全日空
東京国際空港 出展:Harby
撮影1960/04 東京国際空港 戸田保紀 ドラム缶から給油?
1960年頃の新潟市発行「観光にいがた」より 提供横川裕一
貨物機に転用
撮影1962/09/09 大阪国際空港 Twinbeech
1963/4/30 八丈島空港で着陸に失敗し大破 主翼をJA5027に転用 1964/12/10 JA5039抹消登録 (1963/5/10説あり)
全日空JA5039と藤田航空JA6155の事故
《DC-3 JA5039》 主翼は他機へ転用 胴体はバンガローに
全日空のダグラスDC-3 JA5039は、1963(昭和38)年4月30日八丈島から東京へ帰る団体客輸送のために八丈島へフエリーされて着陸した際、タイヤブレーキをロックしていたため大破しました。全日空は破損した機体を修理するため、主翼を東京まで船で運びましたが、6月5日に大阪国際空港で同社のJA5078が接触事故を起こし、この主翼は急遽JA5078へ転用することになりました。
このため、JA5039の胴体は八丈島で廃棄されてしまい、レストラン又はキャンプバンガローとして使われたということです。
《ヘロンの事故》 藤田航空に止めを刺す
八丈島では、この事故の4ヵ月後の8月17日 藤田航空のDH-114BヘロンJA6155が離陸直後に八丈富士山腹に激突して19人死亡という大事故が発生しました。(このヘロンは東亜航空に貸していた機体であるが、たまたま団体輸送のため藤田へ帰っていた)
藤田航空は既に航空事業から撤退を余儀なくされ、全日空への吸収合併が決まっていた矢先の事故でした。完全に止どめを刺されたわけです。この年の11月1日に全日空が藤田航空を吸収合併し、八丈島路線は再び全日空の定期路線として復活。し、フレンドシップの1日2便運行体制となりました。。
孤島八丈島への運行
八丈島は東京の南334qに位置します。八丈町役場の資料では1953(昭和28)年に青木航空が不定期便を就航させたとあります。しかし町営の飛行場(1200×30滑走路)の開場式が1954(昭和29)年7月4日という記録(日本航空史年表)があるので、とりあえず滑走路を設けて青木航空が小型機を適当に飛ばしていたのかもしれません。
1953/
青木航空がセスナ172又はビーチクラフトC18Sで不定期便を開始 1954/7/4 町営八丈島空港 開場式 1955/4/13 日ペリがダブとヘロンで路線開設 週2便 運賃片道4,800円 1956/6/ 青木航空が日本遊覧航空に名称変更 1956/ 日ペリのダブが週4便に増便 1957/12 日ペリが全日空に名称変更 1958/12/21 町営八丈島空港の第三種空港設置許可 建設起工式 (全日空は特別にヘロンを参加させた) 1959-3 町営八丈島空港完成 1959/ 日本遊覧航空がヘロンを投入、初めてスチュワーデスが搭乗 1960/ 全日空がDC-3投入 週2便 1960/ 日本遊覧航空がへロンで名古屋線開設(合併後全日空が引き継ぎ1985年まで運行) 1961/11/ 日本遊覧航空が藤田航空に名称変更 1962/6/22 東京都管理第三種空港供用開始 1200m×30m 1962/9 全日空DC−3又はF−27投入で週2往復、藤田航空ヘロンで毎日2往復 1962/10 藤田航空F-27投入 1963/2/1 全日空が東京〜八丈島路線を藤田航空へ移譲、藤田はF-27で運行。全日空はDC−3で団体貸切飛行などの臨時便を運行 F-7 完