日本航空株式会社は、1950年6月26日連合軍総司令部の国内航空輸送運営の覚書SCAPIN2106発表後、いち早く名乗りをあげ、次のような紆余曲折はありましたが、ともかく航空再開後の最初の航空会社としてスタートしました。
1951/01/17
1951/03/31
1951/05/07
1951/05/22
1951/05/22
1951/08/01 |
日本航空株式会社創立準備事務所を設置 総代藤山愛一郎
国内航空運送事業の仮免許を申請
日本航空グループ(総代尾崎行輝)と合流
国内航空運送事業の営業免許を取得
日本航空輸送(総代鈴木幸七)と合流
日本航空株式会社設立 資本金1億円 社長柳田誠二郎 |
併願3社が一本化され、それに相当の精力が払われていることがわかりますが、この間、飛行機をどう飛ばすのか具体的な当てはなく、すべて机上プランだけでの会社設立であり免許取得でした。一日でも早く業界がまとまって飛行機を飛ばしたいという官民挙げての熱意が後押しをしたと
しか言いようがありません。
覚書SCAPIN2106では、運航は日本に乗り入れている外国航空会社に委託することが義務付けられていたので、日航は5社と交渉し、1951/08/07に5社による共同設立会社Japan
Domestic Airline Company(注)と運航委託契約書を仮調印しました。しかし、5社の中に意見の食い違いがあってなかなか本調印ができませんでした。
(注) 5社は、PAAパンアメリカン航空、NWAノースウエスト航空、CPAカナディアンパシフィック航空、PALフィリピン航空、CATシビルエアトランスポート
(当初は英国航空、カンタス航空も参加)
しかし 羽田・福岡・札幌に支所を設置し、スチュワーデス第1期15名入社(1951/08/20)と着々と体制を整えていた日航は、これに業を煮やしてフィリピンから旅客機をチャーターします。それがPALフィリピン航空゙所有のダグラスDC-3でした。