前夜からの雨にもかかわらず 昨年の三沢航空祭で飛行できなかった無念のおもいを この祭りの前夜祭当日に達成したいという三沢市長の情熱がこもっての飛行だったようです。
朝10時から三沢市と米軍・自衛隊他関係者による式典が行はれ その後飛行が実施されました。
ビードル号の飛行も当初11時半から12時頃と予定されていましたが 飛行が始まったのは30分はやく11時頃で、後になってみるとこの時間帯が最も土砂降りの状態でした。
当日の飛行は 市内と式典会場の「大空ひろば」上空を数回飛行し、時間も30分足らずのものでしたが 悪天候のなか多数の人々が集まって偉業を成し遂げたビードル号の飛行を観覧しておりました。
感想 リンドバーグとの落差
想えば1927年5月20日に大西洋横断に成功し、パリでは20万人の人々に出迎えられ 凱旋帰国したニューヨークでは400万人の歓迎を受けたリンドバーグに対し、その4年後の1931年10月に同様の偉業を成し遂げたにもかかわらず、その差はあまりにも大きすぎると前々から感じていました。
少々調べましたところ、1960年代頃まではアメリカ側のウエナチ(発音にとってはワナッチ)の到着点にはモニュメントはおろか その足跡にかかわるものは全くなかった といわれています。
これに関しては、当時この地をたまたま商用で訪れた日本人の方の本を読んで知りました。
この方は、椿本チエン工業の2代目社長山中一郎氏で、学生時代からビードル号のことを知っており、この地を訪れた機会に着陸地を見たいと探していたところを現地の人に「怪しい日本人らしき 奴がうろうろしている」とポリスに捕まったそうです。
しかし、事情を話したところ、ウエナチ市長の耳に入り、是非詳しいことを聞きたいということで市長主催の晩餐会によばれ、ここでアメリカ人の偉大な功績に 対して、日本ではその功績をたたえて出発点の淋代にはモニュメントはあるが・・・・・というようなことを述べられた。
これに対してウエナチ市長は「このような偉大な実績にモニュメントはおろか資料館もない。アメリカ人としてウエナチ市民として恥ずかしいことだ。」と早速資料集めとモニュメント建設のための実行委員会を設立されたそうです。
私は、この度の復元機の飛行に至った始まりはこのあたりにあったのではないかと思っております。
今回「椿本HD」本社に出版物を確認しましたが見付かりませんでした。
いずれにしても80年たった今、こうして隠れたような偉大な足跡が蘇ったことに感激しましたが、2泊3日の強行取材にはさすが疲れました。