2003年4月に所沢航空発祥記念館開館10周年記念のYS-11シンポジュウムにおいて、粂喜代治さんは「技術者冥利に尽きるYS-11と過ごした23年間であった」と講演を締めくくっています。それは欠陥旅客機を押し付けられた現場整備人が、それを名機に育て上げた苦労の裏返しの言葉と受け取れます。
以下、粂さんのOHPシートの文章をコピーしてみます。(倉橋テクニカルピットさん提供)
・ 現在では信頼性の高い頑丈な飛行機という定評を得ているが、就航当初は故障のかたまりで、全く手に負えない飛行機であった。雨が降ったら飛べない飛行機。4月に就航して6月の梅雨でアウト。
・ 4〜5年は、ただひたすら故障対策に明け暮れた。
・ 10年くらいで落ち着いてきたが、20年かかったものもある。
・ 当初の2年間は日航製からの支援はほとんどなく、航空会社の手探りで努力していた。
ダグラスDC-3に次ぐ長寿命の旅客機となったYS-11は、たしかに歴史に残る名機です。それを欠陥旅客機というのは可哀想ではないかという批判を受けたので、敢えて3年前の粂さんの講演を取り上げました。
ただ、同じ人が、翌年の月間エアライン旅客機形式シリーズ10 YS-11誌上で「日本国内航空にとってYS-11はまさに救世主であった」と讃えています。手に負えない故障のかたまりを救世主という尊称でくくってしまう元常務取締役の皮肉な非論理性が、結局この会社が中途半端なまま日航に飲み込まれてしまう遠因にも通じるような気がしてなりません。
YS-11が辛うじて安定期に入ったのは全日空が提唱して設立された航空技術安全協力委員会(ATASCO)のYS分科会が活動を始めてからです。それは粂さんも講演の中で認めていま。確かに根が頑丈なつくりですから(安全率6倍の機体強度
)、部分的な欠陥を修正していけば疲労による短命ということはありませんでした。
さて、9月30日のシンポジュウムで、粂さんがどういう話を展開するのか、聞きにいかれた方はどうか感想をお寄せください。
シンポジュウムには、海外への販売を経験した講師の名がないのが残念です。というのは、国辱的契約、歯止めのない乱売と叩かれている海外航空会社へのセールスが、結果的に日航製造に加速度的に赤字を累積させ、最後には国民に尻拭いをさせてしまった原因、そして、YS-11に次ぐべき旅客機の開発意欲を完全にしぼめさせてしまった大きな原因であるからです。
あるいは、開発や販売に最後まで理解を示さなかった大蔵省、典型的な役人体質で反目しあった各省庁、第二通産省体質の日航製造や三菱の内部事情も明らかにしておきたいです。それらが蜘蛛の巣のように巻きついている姿が、私の言う欠陥旅客機です。そのあたりをしゃべる講師も見当たりません。
終わり良ければすべて善し、とするYS-11論であってはならないと思います。YS-11で経験を積んだ開発技術者たちが、以後、それを活用する場を失ってしまったことが、日本の航空産業にどれほどの損失となっているか、きめ細かく検証するYS-11論を拝見したいと思います。
A 放送時評 クローズアップ現代 06/09/29 佐伯邦昭
NHK 2006/09/28放映
ク
ローズアップ現代 日本の翼は再び飛び立つのか 〜消えゆく国産旅客機YS−11〜
前半部は、YS−11が182機で製造中止に至った経緯、後半部は、経済産業省と三菱が組んで進めている次期中型旅客機の不透明な将来という構成で、ある程度的確に問題点を紹介しており、NHKにしては珍しいことでした。(その時歴史が動いたなどの独善的な誤った押し付けが無いという意味で)
前半部では、製造面から鳥養鶴雄さんが「飛行機はできた。しかし旅客機ではなかった」と言い放ち、日航製の販売面から矢嶋英敏さんが「官民共に旅客機の販売ということを知らなかった」と回顧しました。
これまで佐伯が指摘し てきたことを裏付けたようなものですが、なお「開発や販売に最後まで理解を示さなかった大蔵省、典型的な役人体質で反目しあった各省庁、第二通産省体質の日航製造や三菱」にまで踏み込んでいたら満点を差し上げられたのに、まあ、このあたりがNHKの限界でしょうか。
更に、YS−11の長寿の原因は、頑丈さとともに、わが国のエアラインの整備陣の努力の賜物であることに言及していないのも残念でした。
後半部については、中国に負けずに何とか成功するように期待するだけですが、ちょっと気になったのは、ボーイング777が全日空とのワークシェアリングでユーザーの考えを取り入れて設計し、ベストセラーになった事実を、三菱のスタッフがあまり重視していないのではないかということです。
軽量化やIC化の革新技術と同時に、民間ユーザーと協同開発するくらいに踏み込んでいかないと、YS-11の二の舞になりかねません。最近では三菱自動車の教訓もあるわけで、天下の三菱という官僚体質を変えなければ、全世界に600機も売り込むという希望は煙みたいなものです。
いずれにしろ、この放送は、30日の科学博物館でのシンポジュウムを先取りしてしまいました。明日は各講師がどこまで踏み込んでくれるのか、興味があります。
B 国立科学博物館 展示会 撮影2006/09/30 YS45
国立科学博物館、日本航空協会主催主催 YS-11 国産旅客機44年の航跡展示会
主翼フィレットや補助翼部分を修正し、方向舵にタブが見えるので、横滑りや操縦不安定を解消するために
大幅な設 計変更を行い、そのテストで風洞模型に手を加えた跡と思われる (佐伯邦昭)
撮影2006/09/30 にがうり
YS-11決定前の新明和興業の案 CV-240とF-27の組み合わせ?
ファンジェット YS-11J案
STOL YS-11S案
聖火号のカンテラ
C シンポジュウム YS-11国産旅客機44年の航跡 「さようならYS-11」 第1部
国立科学博物館 06/09/30 記録N
主催 |
国立科学博物館、航空ジャーナリスト協会 |
協力 |
日本航空協会 |
(1) |
基調講演と司会 藤原 洋(元運輸省航空事故調査委員会首席事故調査官) |
(2) |
設計の立場から 鳥養 鶴雄(元NAMC設計部員・富士重工業) |
(3) |
型式証明の立場から 長澤 修(元運輸省航空局技術部長) |
(4) |
製造現場から 和久 光男(元三菱重工業サービス部YS-11担当) |
(5) |
エアラインの立場から 粂 喜代治(元日本エアシステム常務取締役) |
時あたかもJACのYS-11が最終便で華やかに報道された日にシンポジュウムが行われました。
来賓の経済産業省製造産業局航空機武器宇宙産業課長と国土交通省航空局航空機安全課長の挨拶から始まり、講演は基調講演、設計の立場から、形式証明の立場から、製造現場から、エアラインの立場からの順で元関係者(全員現役は引退されている)の講演がありました。シンポ参加者もほとんど年配者でおそらく元関係者も多数いたと思います。
講演では、歴史的背景から設計、製造、試験飛行、形式証明、エアラインのそれぞれ生の話しが聞けました。
当時の通産省航空工業育成方針や業界実体、長い空白後、戦後初の旅客機形式証明発行の勉強からスタートした当時の運輸省航空局、メーカー側設計思考とレベル、製造現場、使用者たるエアラインの初期苦労などが、一堂にこれだけ明らかにされ聞いたのは初めてと思います。
もちろん既出の話しも多いのですが、私には形式証明発行のために欧米事情から勉強した元航空局技術部長の話しはあまり知られてないので良かったと思いました。
▼ 会場の空気が一変した予定外の強行発言
最後に、エアラインからの粂喜代治氏のYS初期故障の多さと日航製、メーカーの対応の悪さでどれだけエアラインが苦労したかを具体的な事例を数々あげて講演を終わりました。それまで粛々と進んでいた会場の雰囲気が一変して白熱したのは、設計の立場から講演した元日航製設計部員鳥養鶴雄氏が突如マイクを取って話し始めたからでした。自分のいない所での話しならいざ知らず目の前でこんな話しをされたら黙っている訳にはいかないと曰く… 表現は多少違うかも知れませんが、要旨は次のとおりです。
エアラインの言う問題は日航製でも判っていた。そして改善もしなければと認識もしていた。しかし充分出来なかったのは当時のレベルではあまりにも民間航空を知らなかった。
最初から性能重視だけの航空機製造方針でエアライン側の支援などはまったく考えていなかった。5人の侍と称した戦前戦中の大御所設計者も、機体引渡し後はすべてエアライン責任の問題でメーカー側の関知するところではないと考えていたし、YSが就航してもその思考が航空工業界全体にあった。
ところがエアラインはすでに売り込み競争の激しい欧米の旅客機を使っていて特にアメリカ・メーカーの使用者支援のあるべき姿を知っていたのだ。
日航製の海外売り込みではアメリカのピードモンドからは多大な厳しい要求もあった。結局YS輸出では1機の価格5〜6億なのに2億の赤字になり輸出するほどその赤字が積もり最後は360億の大赤字となって国の方針で製造終了となってしまった。
国の経済支援は開発だけの形で、その後は日航製側の負担となり、資本金を食いつぶす実体となった。
またメーカーから出向していた優秀な主たる技術要員もエアラインに機体引渡しが始まる頃から出向元に帰ってしまい、残ったのは日航製プロパーだけで玉石混合の要員であった。
とてもエアラインすべての要求には応じられない事情があった。赤字360億といってもその半分は国の支援のない日航製が銀行借入の金利と為替差損もあるのだ
。
あまりの氏の迫力に会場はシーンとなりました。来賓の前での関係官庁への憤懣、メーカ側の民間不勉強への苛立ち、エアラインへの言い分などが入り混じった言葉でした。
参加者のひとりから「今日はYS最後の日でタイトルもさようならYS-11なのでここで拍手で終わりたいが」と
とりなしの発言がありましたが、氏は「とんでもない!さようならYSなど言いにきたのではない!このYS経験はどこへ行くのか?」と強い口調で言い放ちました。
参加者の何人かは席を立ち、まばらな拍手もあって終了予定時間30分オーバーでなんとなく白けて終わりました。司会の藤原洋さんも最後に手際の悪さを詫びて
いました。
以上が私的リポートです。ご覧のように最後に爆弾発言でしたが、私自身は元日航製にも骨のある人がいてある種感激でした。
彼は気性の激しい人で自分の経歴も紹介しましたが、横浜国大出の機械工学(主は造船)で富士重に入りT-1の設計チーム入り後、日航製出向、その後三菱へ出向したとのことです。
(T-2やF-1の設計担当)
自分でも個性、口害?が災いしてるのは承知のようです。実は設計の立場からの講演でも5人の侍の各個性を言ってましたが
、川重の土井さんが一番戦中を引きずり、性能重視で他は無関係!いいヒコーキを作れば自然に売れるはずの信念とか?
これが民航では諸悪の根源にも聞こえました。実は、私もそう思って います。
D 関連の意見 2件
06/10/04 まるヨ@林田さんから
国立科学博物館のYS-11シンポジウムについては、ヒコーキ雲に速報が掲載されるであろうと心待ちにしておりました。
実は私も参加を希望したのですが、情報を得たのが遅く、既に定員に達した後で叶いませんでした。当日キャンセル待ち狙いで博物館へ行ってもみましたが、それも叶わず、下郷松郎さんのギャラリートークだけ参加して帰ってきた次第です。
鳥養鶴雄さんのご発言を聞いてみたかった。重ね重ね参加できなかったことを残念に思います。でも、事務局へメールしましたら、思いがけず7日のシンポジウムには参加させて頂けるようになりまして、土曜日には上野に参ります。
9/30のシンポジウムで参加受付されている方は、たしかに年配の方が多いように見受けられましたが、これから航空文化財の保存活動への参加を志望する立場にも、ぜひ門戸を開いて頂きたいものと思いますし、今回、そういう願いをお聞き届け頂いた事務局の対応に感謝しています。
06/10/04 自衛隊YS-11はあと10年も使うか HAWKさんから
9月30日を以って民間航路を飛ぶYSは全て退役してしまいました。ここに一つの大きな歴史が終わった訳です。しかし日本の空から完全にYSが消え去る訳ではありません。
自衛隊の所属機が居るからです。実際問題として自衛隊があと何年ぐらいYSを使い続けるのか気になったので隊員さんに質問してみました。その答えは次のようなものでした。
「現時点では退役の予定は決まっていない。もしかしたらあと10年ぐらいは使うかもしれない」とのことで驚きました。退役予定が決まらない一番の理由は「適当な後継機が無いから」だそうで言われてみて納得がいきました。人員と物資を運ぶ上でYSクラスの機体は使い勝手が良いようです。
ただ部品の供給状況はかなり厳しいようでそちらは今後の課題のようです。場合によっては高くついても特別注文で部品を製作するケースもあり得るかもしれないし、ひょっとしたら共食い整備なんていうこともあり得るかもしれないですね。
民間においては、YSの後継機はDHCー8になっているようですが、自衛隊があの機種を導入するかというと、あまり現実的でないように思います。
いずれにせよ今後の維持、運用には苦労が付いて廻るかと思いますが、末永く飛ばし続けて欲しいと思います。他に類似するものの無いあのYS独特のエンジン音をいつまでも聞き続けられたらと思っています。
E YS-11国産旅客機44年の航跡 「さようならYS-11」 第2部 シンポジュウム「ありがとうYS-11」
国立科学博物館 06/10/07 まるヨ@林田
参加者は来賓も含め約140名。そのうち8割強はシニアの方々で、YSと同じ1962年生まれの私でさえ若手の部類。9/30のJAC最終フライトに搭乗された方も数名、聴衆の中にいらっしゃいました。
ただ、先週のシンポジウムの白熱した議論の反動でしょうか、講演者のお話も今回は今ひとつ歯切れが悪いように思われ、盛り上がりに欠けるような印象でした。経験を託すべき次世代の出席が少ないことも要因だったかもしれません。
(1) 乗務員から見たYS-11
講演は、先週のYS-11ラストフライトを担当された本村機長と仮屋CAのお話でした。
本村機長は前日の10月6日晩、台風並みの低気圧の中、伊丹経由で羽田までYS-11をフェリーして来られたとのことで、本当のラストフライトに胸を熱くされている場面もありました。ご家族が撮られた、ラストフライトの模様のプライベートビデオも交えてのお話でしたが、さまざまな思いが交錯するのか、本村機長からは思うところを語り尽くせないもどかしさが伝わってきました。
(2) パネルディスカッション
パネルディスカッションは、YS-11が航空史に果たした役割をあらためて検証できたかどうかは疑問ですが、かかみがはら航空宇宙科学館・横山さんのお話は、朽ちていく屋外展示機をどう維持するかという問題提起で、考えさせられるところが沢山ありました。
国立科学博物館の鈴木さんは、元CABのJA8610は百年後もフライアブルの状態で維持したいと言っておられます。
その為に維持費として年間一千万円もの予算が使われているのだそうですが、これを単にモスボールしておくだけでは意味が無いし、そうは言っても、貴重な機体を安易な方法で展示して遊園地の遊具同様に扱うのはいかがなものかと、講師の先生方でも意見が分かれていました。
フライアブルという言葉に、私はいつかまた飛ばせるのではないか?と淡い期待を抱きます。近年、展示物の蒸気機関車が次々と動態保存機として復活したように、またYS-11も飛ぶのではないかという妄想です。
でも、同時にフライアブルな保存に私は疑問を感じています。
動態保存のSLも、結局は故障し修繕が不可能となってしまった例があると聞きます。一旦は役目を終えた機械を永久に動態維持することは不可能に近く、航空機をフライアブルで保存することは根本的に矛盾を孕んでいると思います。
飛ばせばその分、確実に寿命が縮み事故に遭う危険もあるからです。
ディスカッションの最後に質問したかったのですが、時間切れとなってしまいました。フライアブルとは、また飛ばそうと考えているのか、それとも、ただ良好なコンディションを永く維持する為の方便なのかということを。
私は飛ばさないフライアブルでも十分納得しています。百年といわず、五百年も一千年も、正倉院の宝物と同様に後世に伝え、あらためてYS-11の意義を未来の人々に検証してもらえたらと願っています。
佐伯の感想 日替わりメモ238番 2006/10/09から転記
日本航空協会と国立科学博物館の「YS-11 国産旅客機44年の航跡」における3回のシンポジュウムが終わりました。
最終回では、「同機がわが国の航空史に果たした役割をあらためて検証する
」という最大の注目点は、残念ながらというか、やっぱりというかうやむやにされたようです。1週間前の鳥養強行発言を上回る勇気ある発言を期待するほうが無理でした。
ただ、まるヨ@林田さんが特記しているように、3号機 JA8610
航空局ちよだ号を年間1千万円かけてフライアブルな状態に維持しているという話しにはあっと驚きました。羽田の全日空の格納庫内にあって時々エンジン運転をしているということは聞いていましたが、非公開の場所に保存して保管料と試運転に年間1千万円とは、個人的には、何を考えているのかと言いたいです。
それは、全YS-11の代表として残したいのか、フライトチェック機の歴史を残したいのか、夢みたいな羽田航空宇宙科学館の目玉にとっておきたいのか、よく分かりませんが、フライアブルのための保存なんてナンセンスとしか思えません。いくら機体が頑丈にできていても8年前に退役している飛行機を、将来、誰が整備して誰が操縦するのでしょうか。民間がこんなことを考えたって絶対に首を縦に振らない航空局は、独立行政法人には甘いのですか?
今、日本国内には、次表のとおり抹消登録後の12機のYS-11があります。(製作会社別機名別索引
ナ行参照) それぞれの管理者は維持管理にたいへんな苦労をしており、1千万円と聞いてため息をついていることでしょう。国立科学博物館の立場から言うなら、その予算で展示のノウハウでも研究して各施設管理者をバックアップしてあげてほしい。
JA8610 |
国立科学博物館 屋内保管 (非公開) |
JA8611 |
航空科学博物館 屋外展示 |
JA8712 |
熊本空港 崇城大学 格納庫内 (教材) |
JA8731 |
かかみがはら航空宇宙科学博物館 屋外展示 |
JA8732 |
所沢市駅前 屋外展示 |
JA8733 |
佐賀空港 屋外展示 (貨物倉庫建設のため非公開) |
JA8734 |
但馬空港 屋外展示 |
JA8743 |
さぬき子どもの国 屋外展示 |
JA8776 |
三沢航空科学博物館 屋内展示 |
JA8777 |
能登空港 日本航空学園 屋外 (教材) |
JA8805 |
能登空港 日本航空学園 屋外 (教材) |
JA8809 |
青森市 みちのく北方漁船博物館 屋外展示 |
JA8610を、どうしても良好な状態で保管しておきたいのなら、モスボール化し、タイヤだけを時に回してやる程度の維持をしておいて、屋内展示場が確保できるまで備えておけばいいのではないでしょうか。
「私は飛ばさないフライアブルでも十分納得しています。」というまるヨ@林田さんの意見に賛成です。
F フライアブル保存について 小規模板工房さんから
まるヨ@林田
さんの感想に関して、ちょっと述べたい事がありましたのでメールします。
まず、私の立場を先に述べておくと、フライ
アバルでの保存に反対ではなく、意義はあるものと思っています。そういう立場からの感想ということです。
実は、私も10月7日開催の「ありがとうYS-11」を傍聴していました。
国立科学博物館の鈴木氏の講演では、筑波の倉庫で(わざわざ組み立てられて)保管されているモ式六型や、羽田で動態保存されているJA8610の写真、それに「剣」の写真が出てきたのには驚きましたが、その写真はモノクロで撮影もどう見ても古いもの。
最後の公開からかれこれ20年以上という噂の「剣」の現状は
一体どうなっているんでしょう。
佐伯さんが、日替わりメモで問題にしている動態保存費用に年間一千万円というのは、確かディスカッション後の質疑応答の場面で
、傍聴者からの米国からB-29を買い取って、教育の目的で戦争遺跡として国内で保存展示できないか、という質問に関する話題の中で出てきたように記憶しています。
鈴木氏はその意義を一応認めながらも、まずどこの国でも自分の国で作った飛行機を保存する方が先決である旨の発言をし、さらに世界に散らばっている古い日本機をなんとか里帰りさせたい、と述べていました。
しかし
、フライアバルで帰って来た疾風(「零戦」と言っていましたが、
多分疾風のことを言ったものでしょう)や、モスボールされた良好な状態で帰って来た二式大艇のその後を取り上げ、現状では世界の博物館から、航空機の保存について日本は信頼されていない、返還は夢であると悔しそうに発言されていました。
最近では退役したコンコルドが世界中に配られましたが、日本には声もかからなかった、と。
鈴木氏はこの現状をなんとかしたいと思っているようです。旅客機を動態保存するという、日本では初の試みも、日本の航空機の保存の環境を変える一環として行っているのでしょう。ただ風当たりは強いようで、毎年財務省の監査で非公開機に一千万円ということで指摘を受けている
そうです。これにどのように答えているのか知りたいですね。
さらに数年後には、現在保管しているANAの格納庫からも追い出されることが確定しており、その後の保管先もまだ未定との
ことです。鈴木氏は、近い将来に国産ジェット旅客機の一号機のセレモニーで、JA8610を並べるのが夢だとも話していました。
フライアブルという言葉には
、学芸員の方にも不思議な力があるようで、かかみがはらの横山氏も開館時に、P-2Jを将来再び飛ばすことを夢見て保管してきたが、最近はそんな余裕は無くなり
、外見を保つので精一杯であると言っていました。
またJACの本村機長も、たまたま佐賀の気球イベントにきていた英ヴァージン・アトランティック航空のリチャード・ブランソン会長が個人でDC-3を3機(もちろんフライバル)所有との話に驚嘆したエピソードなども飛び出していました。
飛べる見込みもない飛行機を飛ばす状態に保つことに本当に意味があるのか、あるにしても大変な労力と金銭のかかる旅客機で実施すべきなのか、結果としてそれが、貴重な資料の価値を破壊することに繋がらないのか、
またそれを国立の科学博物館が行うことなのか、ということを検証していくのは大切なことだと思います。
私自身は、YS-11という機体を将来に渡り保存するためにも意義があるものと思い賛成します。できればイベントでいいから公開くらいはして欲しいですけどね。
さて、ここらへんで最近読んだYS-11関連図書を2冊ほど紹介いたします。
○ 矢嶋英敏著「異邦人、改革に起つ」日本経済新聞社http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532312469/ref=sr_11_1/250-7954696-9199412?ie=UTF8
図書室12にあります日経新聞に連載された矢嶋氏の「私の履歴書」を元に大幅に加筆した本です。YS-11についてもわざわざ一章を設けて加筆しており、矢嶋氏の思い入れの深さがうかがえます。
YS-11の弱点の一つとされた水問題に関しては「微小な水漏れ」との文字だけで、運行会社側の「雨が降ると飛べない」「ドラム缶一杯の水」「中で金魚が泳ぐ」と比べて日航製での認識が伺えます。
○ 内田幹樹「機長からアナウンス」新潮社
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101160414/sr=1-2/qid=1160417108/ref=sr_1_2/250-7954696-9199412?ie=UTF8&s=books
元全日空とフェアリンクの機長で作家の内田幹樹氏のエッセイです。巻末に自分が飛ばした飛行機のコメントがあり、フレンドシップ、B727、YS-11、737、747、767、CRJ-100について載せています。
この中でYS-11は最低の評価。とにかくパワーがない、操縦室が暑すぎたり寒すぎたり、当時の水準からいってもホントにこれでいいの、という感じ。クラウンに軽乗用車のエンジンを乗せたような飛行機、とけちょんけちょんにけなされています。他の飛行機はどこかしら誉めていますが、YSは全く無し。
「飛行機マニアにはいまでも人気があるようだが、これはまったく理解できない。」「パイロット仲間でも、YS-11に愛着のある人をほとんど知らないし、できれば避けたいと思っているのではないだろうか。」
ANKの板崎機長や、JACの本村機長のように、心底YSに愛着のある機長もいますが
、一般的な評価は内田機長の方かもしれません。
なお内田機長は新しい飛行機ほどよい(「B3よりB6、B6より400の方が飛びやすいのだ。」)とも言っていますが。考えてみれば車だって、普通の人は新しい方が
運転しやすいですねえ。そんなものかもしれません。