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質問箱039

質問17/03/20
追加17/0
4/20

 

米軍時代の追浜飛行場について

部隊名をOPPAMAと記した飛行艇の写真から 質問
新 質問に対する横須賀市政策推進部基地対策課からの回答
新 すくなくとも1959年3月末までは飛行艇及びヘリコプター基地であったことの確認
資料1 ロバート・C・ミケシュ著「破壊された日本軍機」
資料2 航空情報1953年3月号の座談会 追浜航空基地を見て
更 資料3 世界の航空機1957年1月号グラビア 追浜基地写真ルポ
資料4 八重洲出版のOld Timer No66 2002年10月号 岩立喜久雄筆「東京瓦斯電気工業の戦後」

 

 

 2枚の米海軍飛行艇の写真があります。いずれも尾翼にOPPAMAとあります。PBM-5Aの撮影は、かなり古い時期と思われますが、 UF-1の方は1959年撮影とはっきりしています。

マーチン PBM-5A  マリナー 提供関西航空史料研究会


グラマンUF-1 撮影1959 新明和伊丹工場 高田和彦

質問

 そこで質問ですが、戦後、米軍によって接収された追浜飛行場は、間もなく太平洋各島にあった軍用トラックを集積して、富士自動車(株)に修理と整備をさせました。その技術力のお陰で、折から1950年に始まった朝鮮戦争に大きく貢献しました。土地はそのまま日産系が使い、1959年の日産によるテストコースとブルーバードの生産開始につながっているものと思いますが、飛行場としての機能がどうだったのjか詳細が分かりません。

 写真のように、少なくとも1959年までは、OPPAMAに飛行艇の部隊が居たことは確認できます し、下記三つの参考資料から、飛行場機能と車輌再生機能が並存していたことも分かります。

 さて、陸上滑走路の消滅時期と、米軍からの返還時期についてお尋ねします。

 以上について、2017/03/22に横須賀市へ質問メールを発しました。


 2017/04/12 横須賀市政策推進部基地対策課 松本さんから回答  横須賀

 お世話になっております。市の対応が不十分で申し訳ございませんでした。
追浜飛行場の陸上滑走路がいつまで使用されていたかについては、博物館に確認しましたが不明です。

 追浜飛行場が米軍から日本に返還された期日は、「新横須賀市史 別編軍事」によりますと、1960(昭和35)年と1971(昭和46)年とのことです。 よろしくお願いいたします。

佐伯から : 質問を発して、催促して、やっと3週間後に届いた回答です。滑走路の閉鎖時期は分からずじまい、基地そのものの日本返還も1960年と1971年がどの部分の何に当るのかも不明です。殆ど答えになっていません。 職員の本気度が伝わって来ません。対応の不誠実さを悲しく 思います。


 2017/04/20   ETさんの記憶から

 19593月末に中学を卒業して間もない頃、同級生だった男女10名ぐらいで東京から神奈川県逗子市の鷹取山にハイキングに行きました。帰り道、海を見ようということで野島に向かう途中右手の対岸のやや高い位置にヘリコプターの群れが見えました。その付近には飛行中の米軍のS-58が見えました。ただし、滑走路の様子までは分かりませんでした。

佐伯から : 少なくとも19593月末に米軍ヘリコプターの基地であったこと、及び上のUF-1の写真から飛行艇の基地であったことが確かめられました。固定翼機の滑走路は、すくなくとも1956年3月現在で使用できる状態でなかったことが空中写真で確認できます。(資料3
 
 

 
資料1 2017/03/20   ミケシュ

 ロバート・C・ミケシュ著「破壊された日本軍機」の第4章「各地の航空基地への実地調査」に若干の説明があるので紹介いたします。 提供(たいらあおばさん)

 92pより引用)

 「追浜海軍航空基地:東京湾内、横浜の南にあった横須賀海軍施設に隣接して設置されており、この飛行場は、しばしば横須賀海軍航空基地と呼ばれた。追浜は開発中のほとんど全ての海軍機の中心地であった。なぜならば、この任務はそこに設置されていた空技廠の略称で知られる、海軍航空技術廠の責任であったからである。ここは短い滑走路しかない飛行場で、西側からの着陸進入が危険を伴っていた。海軍機の飛行性能が向上するに従い、飛行試験は次第に本州北部の三沢航空基地や東京湾の対岸にある木更津航空基地のような、より大きな飛行場に移っていった。

 アメリカ海軍および海兵隊は、横須賀の施設を駐留の最初の活動に一時的に使用した。追浜飛行場は日本軍の航空機を艦船でアメリカに移送するための集積中心地となり、航空機の運航は進駐軍が使用し始めて23ヶ月後の1946年初め頃にはほとんど終了していた。この基地は1950年代のかなり中頃まで、限定的な活動ではあったが、飛行艇の基地として機能していた。アメリカ海軍における飛行艇の運用が廃止されると、飛行基地としての追浜飛行場はなくなったのである」

94p 航空写真の説明)より引用)

 「追浜飛行場は、近くの横須賀における海軍の多くの活動を支援して、日本帝国海軍にとっては、重要な施設であった。(中略)この飛行場は、100機程度の航空機を艦船でアメリカに輸送するための集積地点であった。日本への進駐が開始されてすぐに、この飛行場は飛行艇の運航を除いて閉鎖された。アメリカ海軍は、その陸上機の機能を厚木基地に移し、追浜飛行場は早々と忘れられてしまったのである」

 (以上引用終わり)

 これを読む限りでは、「追浜飛行場は狭隘ではあったが鹵獲機の積出しに有利なため使用された」「陸上機の運用はより広大な厚木基地に移転し飛行艇基地として運用した」ということが分かります。

 

資料2 AV1953

 航空情報1953年3月号の座談会により、1953年1月までは飛行場であったことが分かります。当時の米軍機の状況も興味深いので全文を紹介します。


 

  


 

更 資料3 1956年11月の追浜基地 US NAVAL FACILITY OPPAMA  (情報提供高田和彦さん)   1956世

 世界の航空機1957年1月号グラビア 晩秋とあるので1956年11月 頃の取材と推定できます。新造機の整備と故障機の修理を行っていた模様が紹介されています。 これにより、陸上固定翼機と飛行艇が駐留し、その整備ハンガーがあったことが確認され、恐らく連絡用途などのためにヘリコプターも居たと思われます。

新 
地図・空中写真閲覧サービスの1956年3月撮影では、滑走路区画は固定翼機が使用できる状態ではなく、厚木への往復は、船積みで木更津経由又は陸送だったと推定できます。

 
チャンスボート F7U-3M カットラス



マクダネル F2H-2 バンシー



ノースアメリカン FJ-3 ヒューリー

FJ-4                           AJ-2  F2H-2


ダグラス F3D スカイナイト


グラマン F9F-5 パンサー 


スカイレーダー                    グラマン UF-1 アルバトロス


マーチン PBM-5 マリナー

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資料4   Old Timer

 八重洲出版のOld Timer No66 2002年10月号 岩立喜久雄筆「東京瓦斯電気工業の戦後」に追浜の状況が書かれています。

 (要約)
 1948年から1959年まで、富士自動車株式会社(旧日立航空機株式会社)が、追浜工場で16万台の米軍車輌を再生した 。1953年10月23日に10万台出荷の記念式典挙行。 

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日替わりメモ 2017/03/20

○ 16日に発した質問について、たいらあおばさんから、ロバート・C・ミケシュさんの著作に若干の記述があると紹介がありましたので、併せて、当方、手持ちの資料からの引用も載せておきました。

 日付がはっきりしているのは、航空情報が1953年1月に読者とともに追浜基地を見学した後の座談記録で、この時点には多数の米軍機が居たことが分かります。また、Old Timer誌によると、富士自動車工業が1948年から11年間にわたって米軍車輌の再生を行ったと書かれています。

 上陸接収、日本機破壊、米軍機進駐、鹵獲した日本機の米本国へ向けての積み出し、軍用車輌の陸揚げと再生積出等々の機能を果たした追浜飛行場ですが、飛行艇基地の終了時期をはじめとして、まだ全貌が掴めません。

 それにしても、外国人が書いた文献が主要参考資料になるという現実は、いささか頭にきますね。横須賀市が占領下の横須賀というグラフ誌を発行していますが、 追浜の占領が何時終わったのかすら分からず、米軍とニッサン自動車系との並立がどのような形であったのかも全く不明で、史書の形を成していません。欲求不満ばかり残っておりまする。

日替わりメモ 2017/03/21

 世界の航空機に1956年11月に取材した追浜航空基地のルポルタージュが載っていました。説明によると、ヘリコプターZスコードロンと海軍海兵隊のUS NAVY FACILITY OPPAMAが駐留し、カットラス、バンシー、ヒューリー、クーガー、スカイナイト、スカイレーダーなど1950年代を代表する米海軍機が見られます。空母から降りた機体が、ここで整備され、修理されて厚木へ向かったのでしょう。 ただし、陸上滑走路があったのかどうかは、いまだに判然としません。艦載機の搬出入は、すべて空母など艦船経由で行われていたのではないかと?

 これにより、少なくとも1957年までは、陸上機と飛行艇の基地と軍用車輌再生の機能が並存していたことが確かめられました。その米軍関係の終了、つまり日本への全面返還の期日が分かれば、この質問箱が解決となるのですが‥。

日替わりメモ 2017/04/14

 この質問についてマニアの皆さんからの返事は無いだろうと予想していたらその通りでしたが、地元横須賀市役所すらも具体的な事実を把握しておりません。

 横須賀の米軍といえば、軍港を想起するのが普通ですから、飛行場の追浜は軽視しているようで、質問に対する対応はひどいものでした。

・ 先ずは、市立博物館なら分かるだろうと予想して質問したら、形式的な受領メールが届いたのに、肝心の回答は2週間経ってもナシのつぶて、催促したらメールを見ていなかったというお粗末な詫び状がきました。

・ 再度博物館に尋ねたら、それは基地対策課が詳しいから、そっちに聞けというたらい回しの返事。基地対策課というのは今存在する基地問題を扱う部署なのに、数十年前に返還されてニッサンの工場になっている基地のことが解るのかなと疑問に思いつつも、そっちへ質問しました。

・ 基地対策課からは、案の定あいまいな答えがきました。しかも、滑走路閉鎖については、たらい回しをした当の博物館に確認したというし、返還年は市史によればとのこと。
 基地対策課では無理との予想が当りました。それだけに博物館、具体的には教委事務局博物館運営課という部署の職員の程度の低さが浮き彫りになってしまいました。

 かって県内で横浜、川崎に次ぐ都市であった横須賀は、政令指定都市相模原に遅れをとり、人口でも藤沢にも抜かれて落ち目の街になっていると評する人もいますが、市役所までが貧すれば 鈍するではいけませんよ! 米軍と自衛隊の基地で財政が豊なことに安住しないで、足元の歴史くらいはしっかり固めて欲しいものです。名誉回復のために、追浜の歴史を深く調べなおして教えてくれるであろうことを期待しています。