(13) 三沢基地航空祭
@ 八戸から三沢へ
昨日に続いて、和山さんがマイカーでホテルへ迎えに来てくれて、午前6時出発、三沢へ向かって北上します。
おいらせ町の奥入瀬川にかかる橋を渡るときに、源流が発する十和田湖の名が頭に浮かび、中学校の国語教科書でしたか、苦労の末ヒメマスの養殖に成功した物語が蘇えりました。何か劇的な題名がついていたように思います。歳をとって、ふっと何十年前もの授業が連想されるというのも不思議なもんです。直近の飛行機の名前などはすぐに忘れるというのに。
十和田湖は秋田、青森両県にまたがり、その境界争いが未だに決着しないために湖の面積分にかかる地方交付税はずっと供託されているそうです。確かめたわけではありませんが、まあ、いずこにもある問題ですよね。
青森県自体でも津軽藩(弘前藩)と南部(盛岡藩)の反目があり、片や官軍、片や幕府軍につくというような極端な対立を生んだりしています。和山さんに言わせると、言葉も違うそうですし、県政は津軽に肩入れして、南部には金を回さないとか。
そんな車中談に興じながら三沢市の中心部に入り、基地に一番近くて便利な駐車場である岡三沢小学校の校庭へ停めました。入口で案内図と引き換えに金1000円也を渡します。PTAがやっているのか、別の団体かは知りませんが、グランドを埋め尽くすであろう車の数から想像して、結構な収入になったことでしょう。
私の荷物はキャスター付きの鞄なので、本当は三沢空港ビルへ寄って預けておきたかったのですが、午前7時ではまだ開いていないと言われてがっくりでした。初便到着が9時台の空港ですから無理もありません。よって、本日は一日中ガラガラと音を立てながら引っぱり歩くことになりました。
A 三沢基地へ入場
基地正門前では、雨が降ったり止んだりの中で、皆さん辛抱強く開門を待ちました。どんどん人が増えるので早く開けて貰いたいのが人情ですが、基地にも準備の都合があるでしょうから、正7時30分までは無視でした。
開門すると、エプロン地区へのシャトルバス(米軍の長ったらしい不格好なバス)めがけて、マニア姿の連中が一目散に走っていきます。でも、展示場の場所取りに関係がない私は、「航空祭会場案内図 AIR FESTIVAL INFORMATION」を頼りに常設展示機などがある隊舎の方へ一人で進みました。
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ドライバーは女性 撮影和山さん
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常設展示機は、左右マーク違いなど三沢独特の展示形体であるF-16、F-1、F-4、F-86及びF-16の垂直尾翼は、それぞれ青森県A2101に紹介しているとおりです。ただし、2000年9月にELINT人さんが撮影している三菱T-2 59-5105はどこにも見当たりませんでした。
ゲートガードのF-16とF-1
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F-86Fの胴体は空洞
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案内図はデフォルメされているので、距離がつかめませんが、これらを写しながらエプロンまで歩いた距離をGoogle Earthで測ったら3キロメートル弱になりました。
後で考えると、ちょっと奇妙なことがあります。それは、正門から徒歩でエプロンへ入ると危険物チェックがないのに、エプロンの東(航空科学館から)西(自家用車駐車場から)から入場する者は一人一人検査ゲートをくぐらされてチェックされていたことです。正門から
入場が圧倒的に多いのに、これはどういうことでしょうか。
B 展示機などの撮影
ちょうど中央部あたりからエプロンへ入りました。何と広いこと。左右どっちを見ても展示機の端ははるか遠くです。ひと通り見て歩いたら、引き返すのは不可能だと判断して、午後に搭乗する三沢空港寄りを最後にしようと、まずは西側へ行くことにしました。
太平洋からの非常に強い東風が吹いており、朝飯代わりに串刺しの焼き肉をほおばろうと、プラケースから出した途端にケースが吹きとばされ、それを追っかけて50メートルも小走りにというみっともない格好もありました。
西側にはC-17、KC-135、C-130の米軍大型機、
東側にはC-1、P-3Cの日本の大型機、
それにはさまれて、F-16CJとF-16CGが10機弱(テイルレターはWW、WP、OS、51FSなど)、A/OA-10A、ブルーインパルス、F-15、F-2、F-4、E-2C、CH-47、RF-4、U-125、T-400、UH-60J、U-4、AH-1S、UH-1H、OH-1等々がずらっと並んでいます。
プログラムには、米海軍機としてFA-18C/D、EA-6B、P-3C、etcとありますが、三沢にもいると思われるP-3Cすら全く姿をみせず、昨日の八戸に続いて肩すかしでした。
エプロンの人気の機体の前には時間がたつにつれて、ブルーシートが何重にも敷かれています。基地祭での私の定番は、機体のシリアルナンバーを入れた写真を1機ごとに撮ることですが、三沢でははやばやとその権利を放棄せざるを得ませんです。郷に入れば何とかです。
C 飛行展示
オープニングフライトからの展示飛行は、天候もやや回復して、なかなか見応えのあるものであり、特に、11時からのボーイングC-17によるものすごい低速性、旋回性、静音性、STOL性を示す飛行は圧巻でした。それらを含めて
下のニュースフラッシュ123から転記に達人たちの写真で紹介していますので省略します。皆さん、さすがにいい写真を撮っておられます。
C-17が短距離着陸後、すぐに逆噴射でバックし始めた時には、会場内どよめきが起こったように感じました。私は、岩国三軍でC-130がプロペラピッチ変更でバックしたのを見ていますが、ジェットエンジン機では初めてです。遠くにいたのでどのあたりまで後退したのか確かめられませんでしたが、C-130の時よりははるかに長い距離でした。
より速く、より高く、より遠く という航空発達のスローガンに、より大きく、より遅く、より静かにという文句を加える時代になったのですね。
D 第3航空団50周年記年特別塗装機
911格納庫の中に日米の国旗をバックにF-2とF-16が、
共同基地の象徴のように雄姿を見せておりました。それはまた、三沢基地所属の第3航空団の50周年記念を祝すものでもあったようです。 (ニュースフラッシュ123の
「参考までに」を参照してください)
1957年に松島で新編され、小牧、三沢と移動し、今年50年を迎えました。
その特別塗装の第3飛行隊のF-2Aと第8飛行隊のF-4EJ改がオープニングフライトで飛んだあと展示列線に加えられ、更にエンジンの冷却を待って、同じく特別塗装のT-4が待っている観衆の中に牽引されてきて、全方位から撮影できるように展示されました。
心憎い演出です。
F-2 撮影和山さん
エアインテークの紋章は三沢市章 撮影和山さん
F-4 撮影和山さん
T-4 撮影にがうりさん
T-4のタンクの文字 撮影和山さん
F-2とF-4は洋上迷彩の濃緑、T-4は通常塗装で胴体に迷彩みたいなオレンジイエローの模様(意味不明)を描き、吊り下げタンクに50周年を示す赤い文字をいれています。
個人的にはあまり素晴らしいスペシャルマーキングというようには思えませんでした。
なお、それぞれエアインテークの中ほどや整流板に書いている三沢市章は、三つのサの輪を現わします。
D その他の展示など
各種エンジン、武装の展示や油圧作動実演(T-4の脚、動翼、スピードブレーキ)などは、どこの航空祭でもお馴染みですが、E-2Cのエンジンを生で見せるのは三沢だけでしょう。
そういう意味で、もっともっと深く観察して歩きたいのはやまやまですが、足腰の痛み、時折襲ってくる風雨、帰りの飛行機の時間等々を考慮して、昼過ぎには基地を離れることにしました。
(14) 三沢空港から帰路へ
@ 三沢空港
最後の難業と覚悟を決めてRゲートまで歩き、そこで三沢空港までの道筋とタクシーが探せるかどうか隊員に尋ねていたら、子連れのおばさんが「歩いて15分か20分よ。信号の二つ目を左に曲がったら空港だから。健康のために
歩きなさいよ。」だと。
そのおだてに乗って、キャスターをガラガラと引き、雨が来ればウインドブレーカーを羽織り、暑くなればキャスターにくくりつけて歩きましたよ。信号機二つならたいしたことはあるまいと。しかし、ここの信号機の間隔は長いです。およそ1.5キロメートルの間に二つです。
ロサンゼルあたりへ行くと、同じ飛行場のなかでもこのようなところが幾つもあるそうですが、まさか日本で経験しようとはねえ。やっとの思いでJALカウンターで若いお姉さんが待つ空港ビルへ到着、一息ついていたら、和山さんが自動車でやってきて、今朝の駐車場で建て替えたお金をわざわざ返しに来てくれました。まことにもって恐縮です。和山さん、二日間にわたって本当にありがとうございました。(でも、彼がこんなに早く退場するのを知っていれば、乗せてもらったのに‥ 後の祭りでした)
JAL伊丹往き2166便14時50分発の1時間前に、羽田行きが出ますので、今日の三沢基地招待客らしい人々がタクシーでどんどんやってきます。同じ記念品の紙袋をもつ黒っぽい背広姿ですから一目りょう然です。どのような職場の人たちなのでしょうかね。
食堂でエプロンが見える席に座って、もう、ビールを飲む元気もなく、まずいカレーライスを食べながらにがうりさんも乗っている羽田行きのマクダネルMD-87 JA8280を見送ったり、低い雲の下を直線で演技するブルーインパルスを見たりしました。
A 信用されていない日本
ここで非常に驚いたことがあります。自力タキシングを始めたJAL機が左の誘導路へ曲がって行って、更に直線の誘導路へ出ると、機体の向うに見えている長大なフェンスが動き出して民航エプロンを閉鎖してしてしまったのです。
次の、伊丹からの到着便が来る前には、再び開けられました。米軍基地とはいえ、JAナンバーの飛行機か来るたびに開け閉めされる、航空局も日本航空もその他三沢空港で働くすべての人と物が信用されていない証しのように見えました。情けないことです。
ここでは、航空局だけでなく、恐らく航空自衛隊も三沢航空科学館も感情を押し殺さなければならない場面が数多いものと推察されます。以前、海上自衛隊岩国航空基地で聞いた「犬小屋を建てるにも海兵隊の許可がいる」というギャグは、実は現実のものなのです。日本国なのに!!
B 列島三千キロ航空探訪の旅の終り
さて、JAL伊丹往き2166便 MD-87 JA8373は14時50分定刻に動き始めました。やはり満席です。付近から聞こえてくる会話から、今日の三沢基地航空祭帰りの人々が多いことがわかります。
雲を衝いて上空に出ると機長挨拶 『皆さん、今日も日本航空機にご搭乗くださいましてありがとうございます。また、定刻に出発できるようにご協力をいただき感謝しています。飛行機は、これから高度○○○メートル(聞き洩らした)を飛行し、大阪国際空港には16時30分に到着の予定です。大阪に問い合わせましたところ、只今の気温は34度‥‥』 ここでどっと沸きました。
三沢空港ビルの外気温は19度、へー、15度もちがうのー。
実際、伊丹へ降りてみると暑いのなんの、大阪世界陸上の最終日で、女子マラソンの土佐礼子が死ぬ気で追い上げて3位に入った猛暑の日です。でも空港を出ると割合に風があり、リムジンバスも空いていて、新大阪駅のプラットホームが暑かったくらいで、山陽新幹線ご自慢のレイルスター喫煙車もがらあき(禁煙車は満席)、幸い煙草を吸う人がいなくて広島駅まで両足を投げ出して、ゆっくりと帰ることができました。
午後9時前に帰宅して、なにはともあれパソコンの電子メールを開いてみますと、5日間の受信メールが1100件あります。その99パーセントが頼みもしないアダルトや懸賞の迷惑メールです。
これで、疲れがどっと噴き出して風呂ビールもそこそこに寝てしまいました。翌朝から不要メールをどんどん削除して、必要なものだけ残して読んでいきましたが、あるいは、まじめなメールを一律に落してしまっているかもしれませんので、返事がなくておかしいなと思っている人は連絡してください。
かくて、2007年夏 列島三千キロ航空探訪のviolence
madnessの旅は終わりました。書き足りない話しや見せてあげたい写真がまだたくさんありますが、これに没頭すると他のことができません。心の中に記録されている限りは、何かの拍子にふっと思い出されて、別の作業に生きてくることもあろうかと存じますので、これでエンドといたします。
各地でお会いした皆さん 旅行記にお付き合いくださった皆さん どうもありがとうございました。
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