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ヒコーキマニア人生録
映画 「戦国自衛隊」に出演した シコルスキーS-62を写す
戸田保紀
1979年8月16日仙台空港でのお話しです。私は当時39才、この時期はもっぱら松島基地でのT-2の撮影にはまっていて、岩沼の仙台空港にはあまり足が向いていませんでした。
ではどうしてこの日に仙台空港に行ったのかは全く思い出せませんが、フィルムを見るとB-737やYS-11、DC-9などの外撮りに行ったようで、タキシングや着陸を36枚撮りで3本分くらい撮っていました。
午後3時過ぎだったと思いますが、エプロンを覗いてから帰ろうと思い、整備場地区に足を伸ばしたところ、陸上自衛隊機の塗装をしたシコルスキー S-62が駐機して居ました。
えっ、いつ陸自がS-62を買ったんだろう? と言うのが最初の疑問でした。機体ナンバーは40013、と書かれていますが、 尾部の黄色い帯の所に JA9005とも書かれています。これはどう見ても怪しい ! と思っていると機体の周りにいた男性が、私がいた柵の出入り口の所に歩いてきました。
そこでその男性に「すみません、あのS-62は陸自が買った新しい機体ですか」と聞きました。そうしましたら、この方は 「あれは今度角川映画が作る戦国自衛隊という映画で使う機体で、昨日ここのハンガーで塗装をしたんです。今日は朝から仙台の陸自まで行って、ご挨拶をしてきました。まもなく原ノ町の撮影現場まで飛んでいくよころです」と言われました。
ああ、映画のための塗装なのか、と思いましたが、この方にすぐ無遠慮にも「近くで写真を撮らせてもらえないでしょうか」と言いますと、「良いですよ」と言うありがたいお言葉をいただきましたので、すぐ35ミリとブロニーの二台のカメラで撮り始めました。
この男性がパイロットであるというのは分かったのですが、その方が 「自分が操縦している機体の、飛んでいるところを撮った写真をあまり見たことがないので、良かったら写真を送ってくれませんか」と言われました。
一も二もなく「わかりました」と即答したのは当然ですが、名刺を頂いたら「西日本空輸運航部長 加納 正」と書かれていました。それから30分くらいしてこのS-62は滑走路を使って離陸していきましたが、35ミリの一眼レフにモノクロフィルムで連写しました。
このときの写真は機体を前から撮ったカラーの一枚を、「エアワールド」に使って貰ったことがあります。ヒコーキ雲で発表しようとフィルムを探していたのですが、整理が悪くなかなか見つからなかったもので、今回やっと発表させていただくのはうれしい限りです。
塗装は細かく見ていくと、ロゴなどはいまいちの出来ですが、映画を見た印象ではそれなりのもので、自衛隊の協力が得られなくて、仕方なく民間機を陸自仕様の塗装にしたにしては、サマになっていたように思います。この映画には加納さんも清水二曹と言う役で出演していて、タイトルにもクレジットが出てきます。数日後キャビネ判の写真を何枚かお送りしたところ、丁寧なお礼のお手紙を頂きました。
加納さんはこのときから2年後の1981年8月11日、鹿児島県種子島にある種子島宇宙センターの近くの海上に、乗っていたSA360Cドーファン JA9262が墜落し、同乗していた会社の同僚4名と共に亡くなられてしまいました。 インターネットでこの航空事故の報告書が見られますが、事故を起こした時に操縦をしていたのは40才で飛行時間が7984時間というベテランの方でした。加納さんはこのとき57才で、飛行時間は13239時間という超ベテランでしたが、運航補助兼通信士と言う形で左の座席に搭乗されていたそうです。
ヒラー UH-11B、ベル 47G、シコルスキー S-55、S-62、シュド アルーエットIII の操縦資格を持たれていましたが、ドーファンの資格はお持ちでなかったので、操縦はほかの方に任せて飛ばれたのでしょう。事故を起こしたドーファンは1980年5月に作られ、飛行時間が僅か392時間という短命な機体でした。
今回S-62のフィルムを見ていたら、胴体の下の荷物吊り下げ用の金具の写真も撮っていました。しかしどうもいまいち抜けの悪い写真ですが、当時自宅の暗室で処理していたフィルムの現像がうまくいかなかったのかも知れません。
たまたま運良く陸自塗装のS-62なんていう珍機を撮ることが出来たのは、偶然とは言えマニア冥利に尽きることで、私のところにしまっておくより多くのマニアが集うヒコーキ雲で紹介して頂こうと思いました。
しばらく前ですが、この機体のことを知りたくて検索をかけたら、何とヒコーキ雲の中日本航空専門学校の項目がヒットしました。今でも学園の展示機として健在だと言うことを知り、現役時代の最後を飾った映画出演というエピソードをご紹介いたしました。
戦国自衛隊出演を最後として抹消登録され中日本航空専門学校へ 撮影2002/9/23 HAWK
経歴と以後の変遷は中日本航空専門学校参照
日替わりメモ 2017/08/31 多分、ロケ期間中を含めてマニアが写した唯一の機会だと思われるチャンスに遭遇した戸田さんは、映画の中で自由自在にS-62を操っていた清水英雄二等陸曹こと加納 正パイロットと知り合いました。当時、ヘリコプター操縦士では五本の指に入ると言われていた人です、戸田さんは、彼が2年後に種子島で墜落の巻き添えで亡くなるまでを追っています。
S-62も2年後には用途廃止の姿で中日本航空専門学校に展示されます。戦国自衛隊向けの塗装は仙台空港のハンガーで行っていたそうですが、同校の写真では中日本航空の水色のカラーに戻されていますね。出演者のサインはまだ機内のどこかに残っているのでしょうか。
映画史に名を留める戦国自衛隊とともに、千葉真一が迫真のアクロバットなどを演じたS-62もまたヒコーキ雲で空白の航空史の片隅を埋めてくれました。