以上
【参考文献】
① 「山口県外海水産試験場報告表題目録集」山口県
② 「防長之水産」 昭和 11 年 1 月号 山口県水産会
昭和 11 年 12 月号 〃
昭和 13 年 6 月号 〃
昭和 13 年 8 月号 〃
昭和 14 年 5 月号 〃
昭和 14 年 12 月号 〃
③ 「山口県政史」山口県
④ 「日本航空機辞典」モデルアート社
⑤ 「日本ヒコーキ大図鑑」講談社
⑥ 「日本航空史 昭和前期編」財団法人日本航空協会編
⑦ 「防長新聞」
【協力】
神保博之氏
中野昌一氏
立野水産の皆さん
金崎鉄工所の皆さん
安部言思

2. 海軍大浦水上飛行機基地
1. はじめに
この基地の存在については 2015 年に発刊した拙著「年表 山口県航空史 1910~2010」の巻末
に掲載した「山口県飛行場ものがたり」の中で、ごく簡単に触れている。しかし、その後もしっかり
した資料には巡りあっておらず、上述「山口県飛行場」ほど詳しく書くことはできないが、その後分
かったことを以下にまとめて述べてみたい。第一部同様、参考文献は巻末に一括掲載する。
2. 油谷湾と連合艦隊
元乃隅成神社のある向津具( むかつく )半島の内側に広がる油谷湾は、湾口 4km、奥行き 10km
で、西に向かって湾口を広げており、最大水深は 40m もあり、艦船の停泊地に適した湾だった。そ
のため明治 36 年( 1903 )から昭和 9 年( 1934 )までの間に合計 14 回連合艦隊の艦船が入港して
おり、特に大正 10 年( 1921 )10 月 8 日には戦艦長門以下 70 余隻、昭和 4 年( 1929 )にも 70
隻近い艦船が入港している。ただし、湾の西側に当たる大浦付近が油谷島と陸繋砂州でつながってい
るため、その部分を通して外海から湾内が丸見えとなることから、最終的には連合艦隊の停泊地には
選定されなかった。下に停泊する艦隊写真を掲載するが、何枚か残る写真にはいずれも駆逐艦クラス
の艦船しか映っていないのが残念である。また戦艦陸奥所属の 14 式水上偵察機が油谷湾の東に位置
する深川湾に不時着して漂流するという事件が発生し、地元漁民が漁船で近隣の黄波戸漁港まで曳航
して救助している。その時の写真も掲載する。これはおそらく昭和 4 年のことと思われる。

【油谷湾に停泊中の連合艦隊艦船 資料③】 【深川湾・黄波戸漁港に曳航された一四式 資料③】
3. 陸上飛行場建設
昭和 9 年( 1934 )8 月 12 日、連合艦隊がしばしば入港していた油谷湾近郊の日置村では飛行場
建設用地 20 万坪を海軍に寄付することを条件として近隣の四ヶ村と期成同盟を結成して飛行場誘致
に動き始めた。当初考えられていた下関市長府付近が要塞地帯に近いことから、思うように進捗して
いないことを踏まえてのことだった。
翌年 1 月 27 日には山本五十六中将が実地検分して折り紙をつけたと地元紙が伝えているが、真意
の程は良く分からない。候補地は山陰本線人丸駅の西側の油谷河原の水田地帯で、油谷湾の一番奥に
面している。確かにこの付近では20万坪のエリア確保が可能である。地形図で調べてみると1,200m
×500m=600,000 ㎡≒18 万坪になる。湾に面していることから、水上飛行機の運航も視野に入れ
ていたのかも知れない。ただし両脇には標高 100m 内外の山が迫っていて、場周パターンが取りに
くく完璧な適地とは言い難い。事実、この年の 5 月には日置村長と菱海村長は飛行場誘致のため上京
して関係省庁を陳情して回ったようだが、交渉はうまく行かず、結局、誘致は断念して期成同盟は解
9
散となった。
山口県下の飛行場建設については、その後昭和 14 年( 1939 )12 月に岩国飛行場、昭和 15 年 4
月に筆者の生まれ故郷である当時の厚狭郡王喜村( 現下関市松屋 )に小月飛行場が建設された。小月
飛行場では戦争中は陸軍の屠龍が北九州防空の任に当たった。現在海上自衛隊の初級訓練を行ってい
る小月航空基地となっている。陸軍防府飛行場が完成したのは昭和 19 年( 1944 )4 月のことだっ
た。こちらは現在、航空自衛隊の初級訓練基地である。
4. 大浦水上飛行機基地
大浦の越の浜に水上飛行機基地建設が始められたのは昭和 13 年 3 月のことで、完成したのは 5 月
だった。基地建設に際して向津具村は基地用地を献納するとともに、「滑り」や兵舎建設に協力し、さ
らには昭和 20 年 1 月になると防空壕建設にも協力したと資料①に記録されている。当時の施設の概
要は、資料⑦によれば以下のようになっている。
・「滑り」( 格納斜路 )長さ 50m、幅 10m
・兵舎 1 棟、528 ㎡
・燃料庫( 100 ㎡ )、電信室( 37.5 ㎡ )、弾薬庫( 37.5 ㎡ )、烹炊所
一方、戦争遺跡をまとめた資料①には、現存するものとして以下のように書かれている。
・海軍大浦水上飛行機基地格納斜路跡 鉄筋コンクリート造
・同 兵舎跡 木造
・同 格納壕跡 鉄筋コンクリート造
まず、「滑り」( 格納斜路 )から見てみよう。冒頭に全体像の写真を掲載したが、十分 10m×50m
はあると思われる。表面のコンクリートはしっかり残っているものの( 下右 )、土台部分はかなり波
によって壊れかかっている。( 下左 )最下段左写真が全体形状を示し、最下段右が基地側から真っす
ぐ海の方向を見たもの。なお、木造のデッキ状のものは最近作られたもので、基地史跡ではない。


基地は波穏やかな油谷湾に面しており、いずれの写真も右手が湾口になる.
次に兵舎。実は事前勉強が不十分で、この存在は全く知らなかったため、撮影できていないのだが、
グーグルアースで確かめてみると写真の形状のものが確認できる。528 ㎡も頷ける大きさである。

【基地に隣接する兵舎跡 資料①】 【基地に隣接する兵舎跡 資料①】
左下写真は格納壕跡と解説してあるが、到底機体全
体を格納できる大きさではないように思える。おそ らく、機体の一部、例えばフロートなど、或いは燃
料庫、爆弾庫として利用されていたものではないだ ろうか。防空壕かもしれない。この存在も事前には
全く知らず、現地で確認もできなかった。返す返す も残念である。今後機会あれば確認しておきたい。
なお、以下に滑り付近の写真と、かなり広い後背地
の写真も掲載しておきたい。
【格納壕跡 資料①】

上左写真は滑りの背後であり、古いコンクリートが残っている。おそらく当時のものではないかと
思えるものだった。また右写真はさらにその背後
で、かなり広いエリアが広がっており、仮に基地を
拡張するとすれば十分な広さである。そして、この
部分が向津具半島と、かつての油谷島を繋いだ陸
繋砂州の部分であり、背後の山が極端に低くなっ
ているので、外洋から湾内が丸見えとなるため、本
格的な艦隊の停泊地とはならなかったのである。
本論とは全く無関係だが、滑りの部分は漂流し
てくるゴミによって埋め尽くされており、少し
痛々しい。そんな中にヤシの実が一つあった。

5. 使用されていた水上飛行機

【大浦基地前の海岸付近 資料② 手前の 2 機は九〇式水上偵察機二型 奥の 2 機は一四式水上偵察機】
では、大浦基地ではどのような機体が使用されていたのだろうか。それを示すものは、調べた限り
では、唯一ここに掲載した写真しか残っていない。手前の機体 2 機は、九〇式水上偵察機二型である。
「サ-121」とは佐世保海軍航空隊を意味する。奥に逆向きの水上機が 2 機見えるが、こちらは一四
式水上偵察機である。「サ-121」同様に胴体に所属が記してあるように見えるが、判読は不能である。
これらの機体が大浦に常駐していたのか、常駐していたとすると何機くらいか、そのあたりのことは
全く分からない。基地の規模から推測しても 10 機以上だったとは考えにくい。
もともとこの写真は山口県漁業協同組合川尻支店が所蔵するもので、資料②の解説文にはこの写真
に関するものとしては「昭和 20 年前後の撮影」としか記されていない。しかし、海軍機に詳しい佐
藤邦彦氏によれば、時期は「昭和 10 年前後の撮影」とすべきとのことである。解説文では機体につ
いては全く触れられておらず、また何らかの記念写真と思われるが、そのことへの言及もない。50 数
名の人が写っているうち男性は右端の搭乗員と最前列のネクタイ姿の人物、その左の軍帽を被ってい
る海軍士官らしき人物、後列左端の 2 名の 4 名のみで、他の 40 数名は全て婦人方である。勝手な想
像だが、村長、漁業組合長、役所の総務関係者が参加した大浦国防婦人会の記念写真などではないだ
ろうか。機上の搭乗員、そして背後の砂浜に見える軍関係者には戦時下の緊張感は感じられず、何と
なくのんびりした雰囲気が漂っている。その点からも、「昭和 10 年前後」と考えるべきだろう。
資料⑥によれば、
「戦前には連合艦隊が 7、80 隻も湾内一杯に入港し、海軍将兵がボート訓練などで賑やかに教練していました。艦船の見学も解放されていました。またここには水上飛行機の基地が設けられていました。浅い砂浜の上半身が立てるくらいの所にブイがあり、これに水上機が係留されていて、陸より水
兵がゴム長の肩まであるのを着て、操縦士官を肩車にしてジャブジャブと歩いて乗せていました。尖
端の滑走台より車のある台車で掩体の中まで運び、偽装網を上から被せて敵に発見されないようしていました。海軍下士官・兵の兵舎と将校宿舎もあり、油谷湾内では水上飛行機の発着訓練が激しく繰
り返されていました。」
とあり、上記写真奥に海を歩いている水兵らしき
ものが見えることからも、この記述の内容がうかがえる。また掩体が設けられていたことが分かるが、
その場所としては、前ページに示したこの写真の広
い海岸後背地が相応しいから、この広いエリアも基
地として利用されていたと思われる。

6. おわりに
資料①には、
「戦後は、兵舎や水源地が向津具村に払い下げられ、現在、木造の兵舎 2 棟や防空壕などが残存して
いる」(1998 年時点での記録 )
とある。そして、それが今まで残っているという訳である。しかし、現在かろうじて残る水上機基
地の残骸もこれから数十年もすれば形は失せてしまうだろう。つまり戦後一世紀ともなれば、この大
浦基地も含めて多くの戦争の名残は消え失せてしまう運命にある。それを思う時、やはり悲惨な戦争
の記憶として、せめてしっかりした記録だけでもとどめておかねばならないと思うのである。
以上
【参考文献】
① 「山口県の近代化遺産」山口県教育庁文化財保護課
② 「萩・長門今昔写真帖」郷土出版社
③ 「ふるさと萩・長門・美祢」郷土出版社
④ 「目で見る萩・長門の 100 年」郷土出版社
⑤ 「続 しらべる戦争遺跡の事典」十菱俊武、菊池実
⑥ 「新しい時代への伝言 20 世紀の記録と伝承」油谷町教育委員会
⑦ 「空港探索 3」ウェブページ
【協力】
佐藤邦彦氏( イラストレーター )