陸上自衛隊下志津駐屯地 いしぶみ 下志津陸軍飛行学校跡碑
「陸上自衛隊下志津駐屯地は、陸軍の飛行学校跡地で石碑があります。 広報資料館内には、いろいろと面白いものがありますが飛行機関連は、プロペラ (乙式一型偵察機)1枚とは寂しい限りです。あと飛行機関連?は、チャカU等の 標的機が3機ありました。 最近の自衛隊資料館はどこも予算が付いたのか、近代的なモノに変わりつつあります。それとは裏腹に、展示物の縮小等もありますがここは、昔ながらの手書きの展示が目立ちまた、その内容も適切で間違いも無く好感が持てます。 とても良い資料館です。」 ogurenko 後藤喜一さんから 「展示されている標的機がサイトと比べ増加していたので更新用として写真を添付しておきます。機種名は一枚目から「TRX-4A トービー」「KD2R-5型」「60改U型標的機」「チャカU」になります。」 との連絡があり写真追加しました。2025/3/16 (編) 撮影2005/04/29 ogurenko KD2R-5型 (開発元ノースロップ、最大速度370km/h 飛行時間1H) 撮影2005/04/29 ogurenko 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 MQM-74C Chukar II (ノースロップ製 Williams WR24-7 turbojet搭載 最大速度950km/h) 撮影2005/04/29 ogurenko 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 60改U型標的機撮影2005/04/29 ogurenko 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 新 レーダー用曳航目標 TRX-4A トービー 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 乙式一型偵察機のプロペラ 撮影2005/04/29 ogurenko
「陸上自衛隊下志津駐屯地は、陸軍の飛行学校跡地で石碑があります。 広報資料館内には、いろいろと面白いものがありますが飛行機関連は、プロペラ (乙式一型偵察機)1枚とは寂しい限りです。あと飛行機関連?は、チャカU等の 標的機が3機ありました。 最近の自衛隊資料館はどこも予算が付いたのか、近代的なモノに変わりつつあります。それとは裏腹に、展示物の縮小等もありますがここは、昔ながらの手書きの展示が目立ちまた、その内容も適切で間違いも無く好感が持てます。 とても良い資料館です。」 ogurenko 後藤喜一さんから 「展示されている標的機がサイトと比べ増加していたので更新用として写真を添付しておきます。機種名は一枚目から「TRX-4A トービー」「KD2R-5型」「60改U型標的機」「チャカU」になります。」 との連絡があり写真追加しました。2025/3/16 (編)
撮影2005/04/29 ogurenko KD2R-5型 (開発元ノースロップ、最大速度370km/h 飛行時間1H) 撮影2005/04/29 ogurenko 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 MQM-74C Chukar II (ノースロップ製 Williams WR24-7 turbojet搭載 最大速度950km/h) 撮影2005/04/29 ogurenko 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 60改U型標的機撮影2005/04/29 ogurenko 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 新 レーダー用曳航目標 TRX-4A トービー 新 撮影2024/11/12 後藤喜一 乙式一型偵察機のプロペラ 撮影2005/04/29 ogurenko
いしぶみ 下志津陸軍飛行学校跡碑 撮影2005/04/29 ogurenko
参考 下志津陸軍飛行学校の移転 広島吉島飛行場の歴史より
千葉市において偵察航空の教育を行っていた下志津陸軍飛行学校は、1944年6月に下志津教導飛行師団として特攻基地化の道をたどり、菅谷忠克氏の記録(別冊一億人の昭和史 陸軍少年飛行兵)によると、1945年2月に飛行学校本部要員、軍属から女子挺身隊までが吉島飛行場へ移動しました。 吉島では、飛行場営門に下志津陸軍飛行学校の表札が掲げられ 、正式な移転だったことを示しますが、訓練は本来の偵察教育よりも特攻訓練が主体であったと思われます。 終戦間際には学校そのものが特攻隊に組み入れられ第一、第二海燕隊が編成され、第一海燕隊は朝鮮の蔚山へ、第二海燕隊は新潟(一部は佐渡島)へ移動したということ
千葉市において偵察航空の教育を行っていた下志津陸軍飛行学校は、1944年6月に下志津教導飛行師団として特攻基地化の道をたどり、菅谷忠克氏の記録(別冊一億人の昭和史 陸軍少年飛行兵)によると、1945年2月に飛行学校本部要員、軍属から女子挺身隊までが吉島飛行場へ移動しました。
吉島では、飛行場営門に下志津陸軍飛行学校の表札が掲げられ 、正式な移転だったことを示しますが、訓練は本来の偵察教育よりも特攻訓練が主体であったと思われます。 終戦間際には学校そのものが特攻隊に組み入れられ第一、第二海燕隊が編成され、第一海燕隊は朝鮮の蔚山へ、第二海燕隊は新潟(一部は佐渡島)へ移動したということ