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写真で見る東京国際空港の歴史 History of Tokyo International Airport seen with a photograph

[55-1] 1955年 新ターミナルビルができる直前の風景

 

  飛行場俯瞰
1955年1月10日 名古屋三点クラブ員の訪問  B-17、C-69
1955年3月 旧エプロンでの見送り風景 日航のDC-4 JA6001白馬号の出発
1955年3月 旧エプロンと整備場地区の米軍機など
1955年5月28日 ヘレンケラー女史の来日 日航のDC-6B JA6202 City of Kyouto

飛行場俯瞰

 


 

 1955/01/07 名古屋三点クラブ員の訪問  B-17、C-69  写真提供山本、高田和彦 B17 

 

 名古屋三点クラブが温知会の例会に訪れたときに寄った羽田です。大らかな時代・雰囲気ですね。
 

ロッキードC-69(コンステレーション)の前輪 右から三点クラブ 会長荒木 上田(静岡) 青山

ロッキードC-69(コンステレーション

ボーイングB-17 (何型でしょうか)

イガテックさんから

 シリアル番号が確認できないので、はっきりしたことは言えませんが、ノーズのガン位置からみてB-17G(DRONE用に改造)ではないかと思われます。

 ノーズ下、胴体上、胴体下の機銃が外され、尾翼のマークも無く、特徴的なのが胴体のUS AIR FORCEの文字位置で、同一のものはDRONE用に改造されたG型が一番近い感じがします。下記AにB-17-Droneの写真が出ていますが、この機体はS/N43-39074/39273の間であり、 Boeing B-17G-105-BO Fortress の形式でした。

 いずれにしてもB-17の武装を外した機体はめったに見られないものですのでとても貴重な写真と思います。

参考資料
@ B-17 in Action
 Aircraft Number 63, Squadron/Signal Publication 
A D&S Vol.20
 More Delivatives Part 3  B-17 Frying  Fortress

佐伯から : 確かにB、C、D、Eの各型ではなく、F又はG型の武装を取り外したものであり、時期的な状況からして、B-17G(DRONE用に改造)説とするのが妥当のようです。ありがとうございました。

 

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旧エプロンでの見送り風景  撮影1955/03 戸田保紀 2

日航のDC-4 JA6001白馬号の出発
 1955年(昭和30年)3月、初めて羽田の飛行場に行きました。中学2年から3年になる春休みで、この年にお正月に買ってもらった、マミヤのマミーというボルダ版のフィルムを使う小さなカメラで飛行場風景を撮りました。

 国電蒲田駅からタクシーで行ったのですが、その頃の出発は、その後整備場地区になった古いエプロン(図B)から行われていました。送迎デッキなどはなく、目の前で飛行機に乗って行く人を見送 りました。写真は日本航空のDC-4 JA6001 白馬号 が出発するところです。

旧エプロンでの出発見送り風景 
   
日航ターミナル(図B)と朝日新聞社格納庫(図C)の間から撮影

 羽田飛行場が東京国際空港となってから3年後の1955年3月の風景です。そのまた2か月後には現在の位置に初代の東京国際空港ターミナルビルが完成して旅客機エプロンが移動しますので、その直前の姿を示す貴重な写真です。
 DC-4白馬号へ乗る人を見送る人たちの姿が、何ともはや‥ 
 部長さんの出張には部下や取引先や一族郎党が総出で見送りにきてくれました。国内線でしょうから、涙のお別れシーンとはなりませんが、畜生、うまいこと飛行機に乗りやがってという羨望の気持が背中に現れておりまする。ねんねこの赤ちゃんは、2010年に なるとは56歳くらいの部長級でしょうか、現今は見送りなどない気楽な旅ながら、売上不振の責任を負わされて重い足取りで今日も搭乗口に向っているかもしれません。

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旧エプロンと整備場地区の米軍機など 撮影1955/03 戸田保紀     4


 エプロンには日本航空の練習機 ビーチ D-18、パンアメリカンのDC-4(6ではないようです)、ストラトクルーザー、BOAC のアルゴノート(多分)、 日本遊覧航空のセスナ 170、日ペリ航空のヘロン、アメリカ空軍のC-54、C-121、C-124、ノースウエストのDC-6、エアフランスのスーパーコニー、SASのDC-6 などが見え、上空にはアメリカ海軍のHUP-2、海上保安庁のS-55などが飛んでいます。

 尾翼が見えるC-124を撮っていたら、警備のMPと通訳が近寄ってきて、写真を撮ってはいけない、と言われました。当時はまだアメリカ軍の基地に民間航空が間借りしている様な状態で、うるさく言われたのでしょう。
 もう新しいターミナルビルの工事が始まっていましたが、1955年頃の羽田はアメリカ空軍の基地というのが正しいようです。



日航ターミナル(図B)と朝日新聞格納庫(図C)の間から撮影

同上


同上


同上


図Nと図Pの間から撮影


図Tより更に南で撮影


同上

同上

同上 左の建物は建設中のターミナルビル

 

 東京国際空港は、この年にA滑走路が2500メートルに延長され、乗降客が月に3万人を越え、10億円を投じた新ターミナルビルが完成して、名実ともに日本の空の玄関、A級空港になったと航空情報(下記)が報じています。  解説佐伯邦昭

送迎用のフィンガーデッキを持つターミナルビルは2か月後の1955年5月15日に落成した

写真は航空情報1955年7月号グラビア「世界的水準になった羽田空港航空ページェント開催」より 転載許可済み


1955/05/15 ターミナルビル落成記念航空ページェントで展示されたロッキードT-33A
MDAP第一次供与分の第1号機 51-5601

・ A滑走路延長工事
 ICAOの基準によりA級国際空港には8400ft.(2560m)の滑走路が要求されることに伴って延長 1954年着工、1955年5月に完成しました。

・ 新ターミナル建設
 財政難により民間資本で建設することになり、1953/07/20日本空港ビルデング株式会社が設立され、1954/06/20着工、1955/05/15竣工、05/20から東京国際空港ターミナルビルとして開業しました。

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ヘレンケラー女史の来日  写真提供かかし 解説佐伯邦昭     3



ダグラスDC-6B JA6202 City of Kyotoから降りるVIPと報道カメラマン


以下拡大写真で推定


帽子その他の姿からヘレンケラー女史と思われます。記録によれば、ヘレンケラー女史は、1955年5月28日に三度目の来日で羽田に到着しています。


米軍のC-124


遠方に見える4発機とダグラスDC-3、このDC-3が日本機とすれば、時期的には北日本航空のJA5015ということになります。JA登録は1955/05/06。


日航は、ほぼ1950年代を通じてDC-6Bの胴体にWINGS OF NEW JAPANの文字を書いていました。

 

〇 ヘレンケラー女史の来日

 DC-6Bの1枚の写真を頂いて、タラップの下でカメラを構えている報道陣と、スチュワーデスに見送られて降りようとしている人物をみて、とっさにヘレンケラーさんの来日ではないかなと思いました。

 調べてみると、三度目の来日が1955年なので、のんびりした羽田飛行場の背景に写っている米軍のC-124などからして、やはりヘレンケラー女史来日だろうと推定しました。皆さんの調査をお願いします。

 戦後10年間に来日した有名人で、つよく記憶に残るのはマッカーサー元帥、ネール首相、ジョーディマジオとマリリンモンローという古い世代でありますが、見えない、聞こえない、しゃべれないの三重苦のヘレンケラー女史もその中に入ります。廃人同様の障害者が、きちんとした資格をもった家庭教師に支えられ、大学を卒業して、社会に多大の影響を与える人物になったという高度なアメリカ社会の現状を、ちょうど黄金時代のアメ車や旅客機を見ると同じ目で驚嘆したものです。当時の日本では到底考えられませんでしたから。

 東京ヘレンケラー協会のホームページに1955年来日当時の写真が掲載されています。その中の6月1日伊丹空港到着のシーンで、JALスチュワーデスの上着が白半袖シャツになっているのが、5月の羽田到着時の紺の上着と違うのが印象的です。

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