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八尾市
飛行場空撮 八尾飛行場
陸上自衛隊八尾駐屯地
思い出 ボナンザの時代 1955年12月 阪神飛行場

:現地に展示中のもの ×:過去のもの :現状不明

A5504 大阪府 Osaka Prefecture 八尾市 陸上自衛隊八尾駐屯地
     
飛行場空撮 八尾飛行場 滑走路1490m  横風用1200m 撮影2006/10/24 出展:ブッシュパイロット


 陸上自衛隊八尾駐屯地 の展示 

広報展示室(旧陸軍航空隊戦闘指揮所)上のビーチクラフトT-34A 60509 撮影2003/10/19 

出展:シシオ
出展:HAWK
広報展示室

撮影2003/10/19 出展:シシオ
   
撮影2004/10/24 出展:布川章

プロペラ 上から剣、L-19、UH-1
ライカミングT-53(UH-1用)
アリソン205-C-18A(OH-1用)

 

航空歴史館から転記

ボナンザの時代 1955年12月 阪神飛行場の思い出

中井八郎

追加 ボナンザの時代に寄せて 古き良き時代の宮崎 ハービー
 

 45年以上前のフイルムを取り出してみたところ、使用に耐えられなくなっているのが多数見つかりましたが、幸いに1955年秋から58年にかけてのフイルムは痛みもなくきれいな状態ででしたので、富士の現像所へ出して焼き付けてもらいました。キャビネだと手焼きになるので高額で、サービスサイズにせざるを得ませんでした。

 その中から1955(昭和30)年12月3日、4日に、当時は阪神飛行場といっていた八尾の西地区で50ミリレンズで写していたものを送ります。八尾空港として整備中でカメラ片手にうろついても誰も文句を言わなかったのんびりした時代でした。

 八尾飛行場は、笹川良一が大正村につくり、阪神飛行学校(大正飛行場)を開設したもので、後に陸軍へ献納し、戦時中は航空補給廠が置かれていました。

 米軍が進駐して阪神飛行場となり、1954(昭和29)年に返還され運輸省直轄となりましたが、すぐに浜松から陸上自衛隊第3航空隊が移動し、6年後の1961(昭和36)年に八尾空港が開港しました。

 

収録した機体リスト

記  号

機    名

登  録

初期所有者 愛称

抹消登録

JA3001 セスナ195  1952/08/22 読売新聞社 101 1966/08/23
JA3005 セスナ195  1952/07/25 朝日新聞社 そよかぜ 1965/12/23
(参考)JA3007 セスナ195 1952/07/25 朝日新聞社 朝風 1966/04/30
JA3012 オースターエーグレット 1952/09/16 中村正夫 大阪公設市場号 廃棄 未末梢
JA3014 セスナ170B 1952/07/29 東海汽船 青木航空 1975/07/01
JA3023 オースターオートカー 1952/11/19 極東航空 1959/03/26
JA3027 オースターオートカー 1952/12/11 極東航空 1957/08/29
JA3030 ビーチクラフトボナンザ 1952/12/12 産業経済新聞社 あかつき 1970/10/31
JA3040 セスナ170B 1953/02/10 日本観光飛行協会ありあけ 1965/10/18
JA3058 パイパー スーパーカブ 1953/07/07 朝日新聞社 つばめ 1960/06/15
JA3079 セスナ170B  1953/11/20 富士航空 1958/02/13
JA3093 セスナ170B  1954/09/13 日本観光飛行協会 1953/02/20
1020 セスナL-19 1954/08/30 陸上自衛隊 1955

 

JA3001 セスナ195 読売新聞社 101 
JA3005 セスナ195 朝日新聞社 そよかぜ 
参考  朝日が2機所有したセスナ195のうちの1機 JA5007 朝風 航空科学博物館に展示中 2007/02再塗装
     撮影 : 金澤理勝
JA3012 オースター エーグレットJ5F  中村正夫 大阪公設市場号
JA3014 セスナ170B 東海汽船 青木航空の表示

参考 

 用途廃止後、中日本航空専門学校を経て立川航空宇宙博物館へ移転

JA3023 オースターオートカー J5G 極東航空 
 
JA3027 オースターオートカー J5G 極東航空
JA3030 ビーチクラフトボナンザC-35  産業経済新聞社 あかつき
参考
     1972年頃 日本航空学園(山梨)
      
           2005年 日本航空学園(能登)
           
JA3040 セスナ170B  日本観光飛行協会 ありあけ
JA3058 パイパー スーパーカブ 135 朝日新聞社 つばめ
 
JA3079 セスナ170B  佐藤昌三 富士航空  
 
JA3093 セスナ170B 日本観光飛行協会 ちよだ 
 
陸上自衛隊 セスナL-19 1020 第3飛行隊
 

日本陸軍の施設を利用した管制塔 こ れは写していたら自衛隊員から文句を言われた                                            
 

       航空局八尾出張所?     朝日新聞社         毎日新聞社
 
米軍払下げ 3/4トントラック 朝日新聞社
米軍払下げ ジープ 産業経済新聞社

     

     ボナンザの時代に寄せて

2007/03/24日替わりメモ065番から転記 
ボナンザの時代
 プロ棋士と対局して敗れたコンピューター将棋のボナンザの話題が盛り上がりましたが、BONANZAの意味を知っていますか。鉱山の富鉱帯、転じて大儲け・思わぬ幸運・大ヒット‥です。

 ボナンザと聞けば、オールドマニアは何といってもBeechcraft Bonanzaが懐かしいです。常識を破った尾翼もさることながら、前輪式の何ともいえぬスタイルの良さに、ビュイックやリンカーンやオールズモビルの自動車と同じように黄金時代のアメリカ文化のうらやましさを感じたものでした。まさに金鉱脈を見ているように‥。

 日本では産経新聞がいち早く社有機としましたが、このたび中井さんの写真の中にその姿を見つけて、思わず笑い出してしまいました。華やかな新鋭機が基地とするには情けないような飛行場の風景です。ぼろぼろの旧航空補給廠の建物、ストーブの煙突が出ているバラックの新聞社や航空局事務所、トーチカの上に組み上げたような管制塔‥。

 が、しかしです。警戒厳重の今の飛行場とはぜんぜん違う和やかな温かい雰囲気が感じられるではありませんか。子どもたちが自転車で走り回り、飛行機のすぐそばで遊んでも叱られない‥。


〔表紙絵017 ちょっとー そこの坊や ボナンザの時代 昭和30年阪神飛行場〕から転記

 そんな一枚を表紙にクローズアップしてみました。車輪にストッパーがあるので、発進前の状態でしょうが、あの坊やはプロペラ後流を楽しんでいるように見えます。生きておられれば、還暦に近いお歳かと推察しますが、あの時のボナンザがまだありますよと教えてあげたいです。それは、日本航空学園の能登校にです。

 航空歴史館には、単発機登録ナンバーワンの読売新聞社セスナ195をはじめ、再開航空揺籃期の軽飛行機たちがずらっとでてきます。 阪神飛行場風景ともどもお楽しみください。


2007/03/27 ハービーさんから

古き良き時代の宮崎
 ボナンザの時代を見て手持ちを探しましたら、数枚の写真が出て来ました。1962年夏の宮崎空港と航空大学での写真です。高校生活最後の試合が終わって、私がクラブの仲間を空港に連れて行った時のものです。

 一枚は空港のエプロンで全日本空輸のフレンドシップの出発を見ているところです。この時はエンジン始動を正面から撮った写真もありますが、簡単な柵を乗り越えてエプロンに勝手に入り、写真を撮っても危ないよと言われただけで注意された覚えがありません。

 また、すぐ近くにあった航空大学のエプロンに行き格納庫にも入りました。おそらく口頭で許可はもらったと思いますがエプロンにはPA-18、KAM-1、KAT-1、D-18Sが並んでおり格納庫には点検中のPA-18、KAM-1、KAT-1が入っており、操縦席に座った写真もあります。

 ローカル空港とはいえ、今では考えられない古き良き時代、久しぶりに思い出しました。

 

日替わりメモ065番 2007/03/24から


故城山三郎さん
 新聞社機といえば、八尾、羽田、調布から繰り広げられた熾烈な撮影競争を思い起こします。
 城山三郎さんの『飛行計画変更せず』は、当時の事件に取材した好短編でした。
 単発機では遠洋の取材で負けるために各社はこぞって双発機を揃えますが、たまたまデハビランド ダブがオーバーホールに入っていたため、パイパー単発機で貨物船事故の撮影に向かい、霧の中で低空飛行を繰り返した揚句着氷し、帰路エンジンが停止して山中に墜落した話しです。新聞社と家庭の人間模様の機微をたんたんと添えるような文体の中に事実と虚構が見事に調和しています。操縦や機械の技術面の描写も確かでした。有名な総会屋錦城を発表した頃の城山さん初期の作品です。

 航空機産業の盛んな名古屋生まれで商業中学時代は滑空部でグライダーに乗り、愛知高専から海軍特別幹部候補生練習生(大竹海兵団)、復員後一橋大学卒業という多彩な経歴が、幅広い作品を生みだしたのだと思います。航空関係ではほかに『プロペラ機 着陸待て』『夜間飛行』『着陸復航』などいい小説があります。心からご冥福をお祈りします。

 

日替わりメモ特設069番 2007/03/28から


ボナンザの時代
  古き良き時代の宮崎によせて  

○ 飛行中年さんから

 昔の思い出、中井八郎さん、ハービーさんの写真は記録ものですね。是非しっかりと保管、後世に残して欲しいものです。中井さんは艦船マニアを兼業にしているはずですが、伊丹にいた時はよく会っていました。
 昔は、たしかに飛行場自体がのんびりというか、うるさくなっかたですね。私も八尾飛行場では平気でエプロンで撮った記憶があります。1980年前半頃。
 羽田空港でも、バイカウントのラストの時は、断りなしにエプロンへ入れました。今はそんな事は到底想像できない世の中になってしまいました。
 先日、昔つきあいのあったマニア、東村山のKさんに連絡をしたら、既に亡くなったとのこと、奥さんに写真の事を聞いたら、処分してしまったといわれ残念な思いをしました。19601980頃横田周辺で写真を撮っておられたのですが。

○ にばさんから
 ハービーさんの写真はイイですね。白線の入った学帽の高校生が飛行場でヒコーキと一緒に写真に納まっている。
 最近はヒコーキ好きの若者が減ったのか航空科学博物館のオープンハウスでも、中学生、高校生の姿が皆無といっていいほど見えないのは寂しいものです。
 これも理科離れの影響でしょうか。煙風洞でフラップの効果を実験をしたり、ジェット・エンジンを回し、パワーレバーを操作してもらうのが、両親に連れられた幼児やせいぜい小学生とは、実にもったいないことです。

 

佐伯から : 古い写真が死蔵されていませんか?
 中井八郎さんは、世界の艦船にも執筆する有名な艦船マニアです。神戸を拠点に全国の港や飛行場に出没するエネルギッシュな活動には敬服させられます。膨大なストックの整理保存に着手されたようですが、すべてのマニアが東村山のKさんのようなことにならないようにお願いしたいです。
 航空史探検博物館としては、フイルムでもプリントでも送ってもらえば、きちっとデジタル化して死蔵資産が陽の目をみるようにしますので、大所高所に立ってお考えいただきたいと存じます。なお、著作権尊重ならびに現物の返還はいわずもがなです。

中学生、高校生について
 私も航空科学博物館のオープンハウスへ二度ほどお邪魔していますが、にばさんの言われるとおりの状況です。面白くわかりやすい手作りの機材で飛行機の原理を伝えても、幼児や小学生では理解力が不十分だという感じを受けます。彼らが中学、高校生になって二度、三度と足を運んでこそボランティさんの努力が報われるのですが。
 私の地域では、たとえば子ども会活動は小学6年生までで、あれだけ熱心にやっていた子どもが中学に入ると見向きもしなくなります。六と三の間の完全な断絶には手の施しようがありません。思春期という変調の時期に入って行くからどうしようもないのですかね。フジテレビを筆頭にして馬鹿げたバラエティ番組で思春期の子どもの心を惹きつけてしまうこの国の浮ついた文化を、もっと正常に引き戻す工夫はないものでしょうか。 

「航空文学」
 Wikipediaで引いてみると本格航空小説作家一覧として大石栄司、内田幹樹、鳴海明の名が出ていますが、悲しいかな、私は一人もしりません。

 純文学とか大衆小説とか便宜上の分類がたくさんありますが、城山三郎さんの「プロペラ機着陸待て」「飛行計画変更せず」「夜間飛行」などは、すぐれた航空小説もしくは「航空文学」のジャンルに入れてあげたいと思います。それは旅客機の中で悪玉と格闘するといった冒険物語でなく、不幸続きの人生に別れを告げて成功の一歩手間まできたところで死を迎えるという胸を締め付けられるような物語、まさに人間を描いた文学だからです。

 阿川弘之さんの「あひる飛びなさい」も「航空文学」のジャンルに入れてあげたいと思います。評論家連中は、ユーモア小説みたいな通俗なものとして歯牙にもかけていないようですが、歴史派ヒコーキマニアの立場で読めばとんでもない話しです。固有名詞は変えてありますが、戦後航空再開時代の日ぺり航空を設立した人々を縦軸として、ヒコーキに賭ける人間の執念や忘れされざる世相の表裏を描写して実に面白いものです。雲の墓標、山本五十六、米内光政、戦艦長門の生涯などで「敗亡した祖国日本の葬式をたったひとりでやってきたのである」(半藤一利)といわれる阿川さんの筆力だからこその面白さであり、私は高く評価します。

 

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