執筆
中国航空協会 古谷眞之助
所載 社団法人日本滑空協会発行 JSA INFO
2010.Feb
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評 佐伯邦昭
インターネット航空雑誌ヒコーキ雲がグライダーを取り上げるきっかけになった
のは、日本の滑空初飛行という神栖市の大日本滑空始翔乃地碑の写真からでした。しかし、滑空初飛行については、碑が示す磯部鈇吉氏によるものか、或いはル
プリウール中尉の曳航飛行がそうなのか等々、いまだに定説がありません。
古谷さんは、その中で意見を述べていますが、更に研究をすすめて、1921(大正10)年10月17日に神戸の高御位山から飛翔した渡辺真二をもって、わが国初の滑空飛行なりとの試論を展開したのが、この記事です。
徳川・日野の初動力飛行の定説の中にあって、グライダーの初飛行は、いつ、誰が、どこで成し遂げたのか、グライダーをこよなく愛するが故にもやもやを吹き飛ばしたという筆者の情熱を感じますので、日本滑空協会機関誌ではありますが、書評に取り上げる次第です。
・ 定説が生まれなかった背景
筆者は、まず、滑空初飛行の定説がない背景として、軍が滑空に関心を示さなかったことを挙げています。航空後進国として世界に追い付け追い越せの軍事風潮の中では、無動力飛行から飛行理論を身に付ける余裕などなく、とにかく最新の航空機を入手し、生産して飛ばすということにのみ目が行っていたことはうなずけます。だからと言って、それが滑空機飛行などの十分な記録が残っていないことと結びつくかどうかは、もっと検証の必要がありょうに思います。
・ 滑空飛行の定義
次に、論考を進める上で基本となる「滑空飛行の定義」について、筆者の見解は、人力、自動車、ウインチ、航空機によって曳航されている時は、索を通じて動力を貰っている状態なので、いかに機体が浮揚しようとも被曳航飛行であって「滑空飛行」とはいえないとしています。
それは、自身がグラーダーパイロットとして、曳航されている間はいかに安全に高くひっぱりあげて貰うかに全神経を集中しており、自らの意思で索を切った瞬間からがパイロットの腕、つまり「滑空飛行」に移行するという経験によるところのもので、なるほどと思います。よって、明治42年のフランス海軍ル
プリウール中尉の不忍池畔での曳航飛行は「滑空飛行」にあらず、初滑空飛行とは認められないと切り捨てられる訳です。
・ 渡辺真二説
そこで、記録にある限りの黎明期の滑空について1785(天明)年から1930(昭和5)年までの17例を挙げて検証し、最終の結論が、1921(大正10)年10月17日渡辺真二による飛翔を「初の滑空飛行」であると結論づけました。
渡辺真二の飛行は、304mの高御位山(たかみくらやま)に自作のグライダーを担ぎあげ、数人が人力で押し上げる形で離陸させ、松の大木に尾部をぶっつけながらも急峻な崖を利用して降下し、何とか松林に安着したというのです。安着ということは操縦によって水平飛行に戻したことを意味しするので、これこそ「滑空飛行」だという訳です。
その発空地点には、40年後の1961(昭和36)年には滑空記念碑が建てられ、当時の神戸市発行のパンフレットには「日本グライダー発祥の地」と記してあったそうです。
主題の「わが国初の滑空飛行」であるかどうかについては、文献に現れる具体的な飛行方法の中で、
渡辺機の滑空比や飛行時間などを多角的に検証した上で、筆者の定義する「滑空飛行」を満足させる最初のものである
と結論付けています。
門外漢の評者としては、それが正しいかどうかについての判断は避けますが、この論考が滑空界の歴史に一石を投じるものであ
ることを強調したいと思います。動力飛行の百年が何かと取り上げられる今日、専門家ないしは専門機関がグライダーの歴史にきわめて冷淡であることに業を煮やした古谷眞之助さんの声に皆さんが耳を傾けてほしいものです。
補足
古谷眞之助
1 佐藤博著、木村春夫編「日本グライダー史」1999年発行によれば、
◎ 明治42年(1909)、フランス武官ル・プリエー海軍中尉、相原四郎海軍大尉の協力を得て竹の骨組み複葉グライダー製作、12月26日、上野不忍池端で、自動車曳航にて試験飛行実施。滑空距離約20b。
◎ 明治43年、伊賀氏広男爵が自作単葉グライダーで、やはり自動車曳航により、高度1b、距離15bを飛行。東京板橋競馬場。
◎ 大正5年、先代の田中省己が自作単葉グライダーで何回か滑空を試みた。
◎ 大正10年、東京帝大航空研究所小野助教授は高級グライダーの製作着手、しかし大正12年の関東大震災で焼失。
◎ 昭和5年、所沢陸軍飛行学校教官藤田中尉はプライマリーを製作。試験飛行では曳航方法が悪くて離陸しなかったが、のち、磯部鈇吉の日本グライダー倶楽部で長く練習に使用された。
2 村岡正明著、「航空事始 不忍池滑空記」1992年発行によれば、ル・プリウールの飛行についてはもう少し詳しくて
◎ 明治42年12月5日、ル・プリウール、第一高等学校グランドにて、自動車曳航により試験飛行。大人が搭乗すると飛行せず、12、3歳の子供を登場させると、飛行高度2b、距離10bの飛行が可能となった。
◎ 明治42年12月9日、不忍池畔の空き地で、フランス海軍中尉ル・プリウール搭乗し、自動車曳航により、飛行高度4〜6b、距離約100bの飛行に成功。日本海軍相原大尉は20bまで上昇するも墜落。
◎ 明治42年12月26日、同氏、同地にて、自動車曳航により、同じく高度8〜10b、距離約130bの飛行に成功。