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航空歴史館いしぶみ

渡辺信二飛行士顕彰碑と遺品 横廠式水偵の補助フロートなど

 

写真と文 古谷眞之助

 

A5619-2 兵庫県加古川市志方町 高御位山
             Mt.Takamikurayama、S.Watanabe Monument, Kakogawa City, Hyogo Prefecture
 
◎ いしぶみ 飛翔 渡邊信二飛行士顕彰碑   加古川市志方町と高砂市の境にある高御位山

提供 加古川市観光協会


     

碑文) 

先覚があった
志方町の人である
大正十年(千九二一年)十月十七日
彼自らが創作した滑空機に
彼自身が搭乗し天空を目指
してここから飛んだ
滑空距離三百メートル
時に二十一歳であった
ここへの搬上は下之丁の青少年がかってでた
そして実行にあたっては、渡辺準、竹内忠雄、藤本和蔵、池沢徳次、平田重成等がすすんで力をかした
つまり協力してその滑空機を持ち上げ臂力のみで抛った
関西に於ける実に最初の
飛翔であった


 

(建立経緯)

    飛  翔
 渡邊飛行士顕彰碑

 碑銘 航空局長倉井栄文
 碑文 藤本和蔵
 飛行像 東村正久
 空輸 井上長一
 施工 前川甚三郎
 奉仕 略
 芳名者 四百五拾余名

 昭和36年10月17日建立

   志方町番茶クラブ

本邦初滑空飛行については下記試論参照
 

◎ 渡辺信二飛行士遺品

  遺品は、1926(大正15)年4月6日日本航空輸送研究所で郵便飛行に従事中、神戸沖で横廠式イ号甲型の火災による墜落で亡くなった時のものです。

渡辺信二飛行士の飛行服  撮影2016/11/17 加古川市民ギャラリー 高御位山と渡辺信二展にて 古谷眞之助

飛行帽と眼鏡



渡辺信二のアルバム 残念ながら、日付や解説はほとんどない

 

◎ 横廠式イ号甲型の翼端補助フロート(浮舟)





 実に不思議なものを見た感じでした。構造的には、竹か板材を薄く削ったもので外形を形作り、それに紙のようなものを張り付けた上で、何らかの防水処理( 防水塗料を塗布したか? )したものと推測します。 現物としては日本でこの一点だけではないでしょうか。

1940年刊 写真日本軍用機史


渡辺信二事故機の推定

 渡辺信二所属の日本航空輸送研究所が使用していた横廠式イ号甲型は、「J-BIRD戦前の日本民間航空機-」によれば以下の機体が確認できます。全部で24機です。登録記号の頭「J-」は省略しています。

 TANP  TEQU   TOCI    TOZB  TANQ  TEUY  TOEJ   TUOV  TAOR  TEVZ TOEK
 TURY
  TAPS  TISV     TOFL TARU  TITX     TOHN ◎TATW  TIUY     TOIN

 このうち、TAOQTIVZTOCITOEKTOHN4機は、渡辺信二のアルバムに掲載されています。

 渡辺信二が墜死したのは大正15( 1926 )46日でした。その時の機体は、横廠式イ号甲型と分かっていますから、上記の24機のうちのどれかです。それぞれの機体の経歴を見ていくと、◎印のTATWTOEJの2機の可能性があります。

 TOEJ1926年5月4日に「破壊」したため登録を抹消されています。TATWも、192647日に同じく「破壊」により抹消されています。登録抹消日は、必ずしも「その事態が発生した日」とされるとは限らないため、渡辺信二墜落日の46日ではありませんが、47日付けで抹消されたTATWが渡辺信二とともに神戸市外駒ヶ林沖合に墜落した機体と推定します。TOEJは抹消日が約1か月後であり、少し間隔が開き過ぎているため、たぶん、当該機ではないと思います。

     

試論

グライダーの部屋 「日本のグライダーの初飛行について」から転記 

試論 わが国初の滑空飛行について 中国航空協会 古谷眞之助 


執筆
   中国航空協会 古谷眞之助

所載 社団法人日本滑空協会発行 JSA INFO 2010.Feb


評 佐伯邦昭

  インターネット航空雑誌ヒコーキ雲がグライダーを取り上げるきっかけになった のは、日本の滑空初飛行という神栖市の大日本滑空始翔乃地碑の写真からでした。しかし、滑空初飛行については、碑が示す磯部鈇吉氏によるものか、或いはル プリウール中尉の曳航飛行がそうなのか等々、いまだに定説がありません。

 古谷さんは、その中で意見を述べていますが、更に研究をすすめて、1921(大正10)年10月17日に神戸の高御位山から飛翔した渡辺真二をもって、わが国初の滑空飛行なりとの試論を展開したのが、この記事です。

 徳川・日野の初動力飛行の定説の中にあって、グライダーの初飛行は、いつ、誰が、どこで成し遂げたのか、グライダーをこよなく愛するが故にもやもやを吹き飛ばしたという筆者の情熱を感じますので、日本滑空協会機関誌ではありますが、書評に取り上げる次第です。


・ 定説が生まれなかった背景

筆者は、まず、滑空初飛行の定説がない背景として、軍が滑空に関心を示さなかったことを挙げています。航空後進国として世界に追い付け追い越せの軍事風潮の中では、無動力飛行から飛行理論を身に付ける余裕などなく、とにかく最新の航空機を入手し、生産して飛ばすということにのみ目が行っていたことはうなずけます。だからと言って、それが滑空機飛行などの十分な記録が残っていないことと結びつくかどうかは、もっと検証の必要がありょうに思います。

・ 滑空飛行の定義
 次に、論考を進める上で基本となる「滑空飛行の定義」について、筆者の見解は、人力、自動車、ウインチ、航空機によって曳航されている時は、索を通じて動力を貰っている状態なので、いかに機体が浮揚しようとも被曳航飛行であって「滑空飛行」とはいえないとしています。

 それは、自身がグラーダーパイロットとして、曳航されている間はいかに安全に高くひっぱりあげて貰うかに全神経を集中しており、自らの意思で索を切った瞬間からがパイロットの腕、つまり「滑空飛行」に移行するという経験によるところのもので、なるほどと思います。よって、明治42年のフランス海軍ル プリウール中尉の不忍池畔での曳航飛行は「滑空飛行」にあらず、初滑空飛行とは認められないと切り捨てられる訳です。

・ 渡辺真二説

 そこで、記録にある限りの黎明期の滑空について1785(天明)年から1930(昭和5)年までの17例を挙げて検証し、最終の結論が、1921(大正10)年10月17日渡辺真二による飛翔を「初の滑空飛行」であると結論づけました。

 渡辺真二の飛行は、304mの高御位山(たかみくらやま)に自作のグライダーを担ぎあげ、数人が人力で押し上げる形で離陸させ、松の大木に尾部をぶっつけながらも急峻な崖を利用して降下し、何とか松林に安着したというのです。安着ということは操縦によって水平飛行に戻したことを意味しするので、これこそ「滑空飛行」だという訳です。

 その発空地点には、40年後の1961(昭和36)年には滑空記念碑が建てられ、当時の神戸市発行のパンフレットには「日本グライダー発祥の地」と記してあったそうです。

 主題の「わが国初の滑空飛行」であるかどうかについては、文献に現れる具体的な飛行方法の中で、 渡辺機の滑空比や飛行時間などを多角的に検証した上で、筆者の定義する「滑空飛行」を満足させる最初のものである と結論付けています。

 門外漢の評者としては、それが正しいかどうかについての判断は避けますが、この論考が滑空界の歴史に一石を投じるものであ ることを強調したいと思います。動力飛行の百年が何かと取り上げられる今日、専門家ないしは専門機関がグライダーの歴史にきわめて冷淡であることに業を煮やした古谷眞之助さんの声に皆さんが耳を傾けてほしいものです。

 

補足 古谷眞之助

 1 佐藤博著、木村春夫編「日本グライダー史」1999年発行によれば、
◎ 明治42(1909)、フランス武官ル・プリエー海軍中尉、相原四郎海軍大尉の協力を得て竹の骨組み複葉グライダー製作、1226日、上野不忍池端で、自動車曳航にて試験飛行実施。滑空距離約20b。 

◎ 明治43年、伊賀氏広男爵が自作単葉グライダーで、やはり自動車曳航により、高度1b、距離15bを飛行。東京板橋競馬場。 

◎ 大正5年、先代の田中省己が自作単葉グライダーで何回か滑空を試みた。 

◎ 大正10年、東京帝大航空研究所小野助教授は高級グライダーの製作着手、しかし大正12年の関東大震災で焼失。 

◎ 昭和5年、所沢陸軍飛行学校教官藤田中尉はプライマリーを製作。試験飛行では曳航方法が悪くて離陸しなかったが、のち、磯部鈇吉の日本グライダー倶楽部で長く練習に使用された。


2 村岡正明著、「航空事始 不忍池滑空記」1992年発行
によれば、ル・プリウールの飛行についてはもう少し詳しくて 

◎ 明治42125日、ル・プリウール、第一高等学校グランドにて、自動車曳航により試験飛行。大人が搭乗すると飛行せず、123歳の子供を登場させると、飛行高度2b、距離10bの飛行が可能となった。 

◎ 明治42129日、不忍池畔の空き地で、フランス海軍中尉ル・プリウール搭乗し、自動車曳航により、飛行高度46b、距離約100bの飛行に成功。日本海軍相原大尉は20bまで上昇するも墜落。 

◎ 明治421226日、同氏、同地にて、自動車曳航により、同じく高度810b、距離約130bの飛行に成功。 

 

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