5月16日日曜日くもり、午前11時すぎ聞きなれないエンジン音を耳にした。空港の方を見るとX尾翼のボナンザが旋回していた。何度も旋回するので故障かと思ったりした。(空港のすぐそばの県営グランドで朝日新聞社の体操祭が行なわれていることを忘れて
いたので、写真撮影のための旋回だとは気付かなかつた)
それから.間もなくしてみると一本の黒煙が相当たかい空までのぼり、ボナンザの姿が見えない。消防車のサイレンが通
りすぎた。落ちた!と思った。すぐに自転車を飛ばした。
バス通りを救急車が走っていった。グランド前をすぎるころから体操祭の人達が空港へ向って急いでいる。てっきり空港内へ落ちたものと思ったら
、その手前の入江(図面参照)に墜落していた。入江の南側から幾重もの人垣のうしろの方からジャンプしてみると焼け残った尾翼がが見える。はじめてみる飛行機の墜落現場に興奮を覚える。近づいていくとJA3110がはっきり見える。
まわりの牡蠣いかだも燃えている。消防士が近くの船に乗って操縦席のあたクをトビロでつついているが即死らしい。担架がおろされたところで北側に行ってみる。
消防車はいるが、航空局の化学消防車はいない。一番近い所にいて、設備も十分整っているのに出動できをいとは…
両主翼の端も焼けずに残っていた。左翼の朝日のマークと右翼のJA3110が痛々しい。
正午のテレビニュースが早くも事故の模様を速報した。午後2時ごろ朝日機がつぎつぎにやってきた。まずツインボナンザ(JA5042)、続ぃてセスナ180(JA3059)、エアロコマンダー(JA5026)が降りた。
午後3時ごろもう一度現場へ行ったら、CABの係官や瞥察官が調べていてくわしく見ることはできなかつたが、ほんとうに無惨
な姿であった。夕方遺族をのせたエアロコマンダー680F(JA5075)が悲しみをこめて広島空港へ着陸した。
(筆者は空港から釣1・5km離れた広島市南観音町に居住、
当時高校生〉
ビーチクラフト
H-35 ボナンザ JA3110
春風 撮影1959/03/31 戸田保紀
JA3110の経歴
1958/03/20 |
c/n C-5183 JA登録 朝日新聞社 定置場東京国際空港 |
1965/05/16 |
広島市南観音町で墜落 |
1965/05/27 |
抹消登録 |
1965(昭和40)年5月16日午前11時15分ごろ、広島市南観音町の県営陸上競技場て開かれていた日本体操祭広島中央大会を空から取材していたビーチクラフトH35”ボナンザ”(JA31
10)は、グランド上空を低空で7回ほど旋回したあと、東南の方向へ向って上昇しょうとして失速し、天
満川入江の牡蠣いかだ上に墜落炎上した。
この事故で、沢田操縦士、石川整備士、中崎カメラマンの3氏が即死した。
目撃者の話を総合すると、機体は図のようにグランド上空から天満川へ向って飛行しようとしたところ、眼の前に高圧鉄塔がせまったため、急上昇しょうとしたが失速し、上昇姿勢で約60メートルの高さから落ちはじめ、半転しながら機首を下に向けて突込んだようである。
当時の気象は、快晴、風速南西3mであり、気象上の異常はなかった。地上数拾メートルの超低空を旋回したことは、明らかに航空法規に違反した無暴飛行で、操縦士の過失ではないかという見方もある。
航空法施行規則第174条 (有視界飛行の最低安全高度)
人又は家屋の密集している地域の上空にあっては、当該航空機を中心として水平距離600メートルの範囲内の最も高い障害物の上端から300メートルの高度
ただし、大臣の特別の許可を得たものを除くとありますが、この飛行において許可を得ていたのかどうかは不明です。