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航空歴史館 


テーマイラスト 古谷眞之助

 
このページ @ 故桑原 益君に捧げる
A 日本航空のDC-8導入 略年表 
B 日本航空の経歴と写真 DC-8-30シリーズ JA8001〜8006
C 日本航空全機の経歴と写真 DC-8-50シリーズ JA8007〜8019 N803 N806 N109
D 日本航空全機の経歴と写真  DC-8-60シリーズ
  D-1 経歴と写真 DC-8-61 JA8038〜8059 
  D-2 経歴と写真 DC-8-62 JA8031〜8056 N8763〜8768
E 日本航空DC-8のネーミング考
F DC-8の外来機  東京国際空港・新東京国際空港への定期便
G DC-8の外来機 定期便会社以外のチャーター便 と特別機
H DC-8の外来機 1970 大阪万博特別便
I DC-8の外来機 米軍チャーター機  横田基地
J DC-8の外来機 国内における外来機の主な事故


 

協力者

桑原 益、下郷松郎、幸田恒弘、 笹野強一、佐藤(?)、鈴木博之、瀬戸口徹、高尾 真、高田和彦、 戸田保紀、濱野博司、古谷眞之助、渡辺(?)、A-330、CTSsuga、ET、geta-o、Gulf4、KUPANBA、PAPPY、T67M  〖まとめ佐伯邦昭〗

参考資料

JAHS機関誌CONTRAIL、名古屋航空クラブ会報月刊航空マニア、日本航空20年史、航空情報、 航空ジャーナル、エアワールド、航空情報増刊「現用日本の航空機」、航空ジャーナル増刊「ダグラスエアライナー」、世界の翼、日本航空機全集、航空統計要覧、その他内外の書籍ネット多数

 

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   @ 故桑原 益君に捧げる

 この研究を、我が国で最高のダグラスDC-8論である日本におけるDOUGLAS DC-8を著わした故桑原 益君に捧げます。(彼の論文は、CONTRAIL誌の126(1986 SPRING)から136(1988 AUTUMN)まで掲載されました。)

日本におけるDOUGLAS DC-8 目次

CONTRAIL 表 題  内容の分量
126 第1章 DOUGLAS DC-8のプロフィール 本文12頁、 写真18枚、表1、リスト2頁 
  1 開発に至るまで
  2 -10 〜 -40シリーズ
  3 -50シリーズ
  4 -60シリーズ
  5 -70シリーズ
127
128
第2章 日本におけるDC-8-301 〜 50  本文13頁、 写真32枚
129 第3章 日本におけるDC-8-60  本文13頁、 写真16枚、
130 第4章 DC-8の事故  本文 9頁、 写真28枚、
131

136
第5章 DC-8の外来機

 本文75頁、 写真38枚、 リスト6頁

 桑原君は、三菱商事の石油部門担当として激務のかたわら、実に綿密な調査と外国出張の機会などに撮りためた写真によって 、上記のように本文122ページ、写真132枚、フリートリスト8ページに及ぶ論文をまとめ上げました。 以後手にする文献等で、この論文を質量ともに凌駕するものは無いと信じます。
 残念ながら、桑原君はこの連載の数年後に倒れて不帰の客とな られたため、以後のDC-8の動向など手にすることは出来ませんが、世界は既に727、747、767など第二世代ジェット旅客機の時代に入っており 、DC-8は埋没しつつありましたので、大きな影響はありません。

 彼によるDC-8の存在理由と、DC-8フアンの心理を端的に現わした冒頭まえがきの一節 を紹介しておきます。

(注) IATA「世界の民間航空会社の輸送実績統計 1983年度」で、日本航空がパンアメリカン航空を抜いて世界一位となった

 日航DC-8の中には、リース機があります。それを購入に切り替えたものもあれば、Nナンバーのままだった期待もあります。既存の諸資料のどれをみても、そもそもリース機について触れたものが少ないうえに、製造番号から日航使用期間など経歴を具体的に明記しているのは桑原君のみです。唯一の資料と言って差し支えありません。
 更には、日航の全DC-8について日航での使用後、各国の航空会社でどのように使われたかも克明に書いております。ヒコーキ雲上では、桑原記述以後の状況を調べる手立てがないため、JA抹消登録後どこへ売却されたかのみにとどめていますので、彼は不満かもしれません。

 余談ですが、彼の没後かなり経てからですが、私は出張の機会に田園調布のお宅へお邪魔して線香をあげさせて頂きました。益さんの仕事部屋の棚や机など、もちろん図書や資料にも一切手を付けずそのままにしてあり、一隅に仏壇がしつらえてありました。奥様による益さんの趣味へのご理解、愛情の深さ、早逝の無念さを強くつよく感じました。
 あの膨大な資料はその後どうされたでしょうか。今は、ご遺族の消息も田園調布の住所も分からなくなってしまいました。何かご存知の方がおられましたら、佐伯までお知らせいただきたいと存じます。

 

 

A


A DC-8導入 略年表
 

1954/07/15

 ボーイング社が、7867-80 Dash Eighty(ボーイング707のプロトシリーズ)を初飛行させた。
 世界の航空会社が注目する中、CommetT型をキャンセルしていた日本航空も更にジェット旅客機の検討を開始した。
 対象は、DC-4とDC-6Bにつながるものとしてダグラス社の航空機としたのは当然の成り行きであった

1955 ダグラス社と直接交渉 航空情報1955年9月号

1955/12/15


 

 

DC-8 4機発注 航空情報1956年5月号

1956/04/12 つなぎのDC-7C 4機購入決定
1956/05 DC-8前渡金のために日本航空社債5億円を発行
1956/10/15 増資 航空情報1956年12月号
1956/12/11 アメリカから融資 航空情報1957年2月号
1957/09 増資 航空情報1957年11月号
1957/12/23 つなぎのDC-7C 1号機 JA6301 東京国際空港に到着
1958/02/12 つなぎのDC-7C 1号機 JA6301 太平洋線に就航
1958/07 増資 航空情報1958年09月号
1958/08/13 日本航空社内にDC-8準備室を設置 社長以下全役職員に対しDC-8の教育を開始
1958/10 DC-8客室クルーの訓練を開始
1959/01/26 東京国際空港に日本航空オペレーションセンター完成
1959 つなぎのボーイング707賃借交渉 航空情報1959年10月号

 
1959 ジェット旅客機DC-8の導入に伴って社章を改正

CONTRAIL60号(1969年5月発行) 日航機の塗装について 桑原 益

日替わりメモ2019/08

〇 日航の社章と機体外装デザイン変更

  先ずは、1959年、初のジェット旅客機導入に伴って心機一転、それまでの翼型JALデザインの社章を赤い鶴丸に変えました。各機体のベルトライン機首部のマーキングが一斉に鶴マークに取り替えられました。10年後にその変遷を桑原君がCONTRAILに書いています。

 同じく10年後の1969年、ボーイング747の導入に際して、今度は機体外装デザインの改正を行いました。5本の紺帯に日章旗・その上のDC-8と727の文字だった尾翼を大きな鶴丸ひとつにしてすっきりしました。日本と言えば鶴マークというくらいに優れたデザインで、一時エアシステムと合併した時に消えましたが、すぐに復活して現在に至っていることはご承知のとおりです。

  1969年の機体外装デザインの改正は、もう一つ大きな変更がありました。それは、DC-3以来親しまれてきた愛称の廃止です。
  ダグラスDC-3   金星
  マーチン 2 0 2   星座
  ダグラスDC-4   星座、名山
  ビーチクラフト18  鳥
  ダグラスDC-6B  国内大都市名(ローマ字)
  ダグラスDC-7C  世界大都市名(ローマ字)
  コンベアCV880  銘木、花(ローマ字)
  ダグラスDC-8   国立(国定)公園、名勝地など(ローマ字)
  ボーイング727   河川(ローマ字)
と続いてきたのですが、ダグラスDC-8とボーイング727の導入中途で打ち切ってしまいました。
 塗り替えは1969年の10月から半年かけて行われましたが、まだ引き渡されていないDC-8と727で、既に愛称を決定していた機体については、書類上、愛称が残っています。実際に記入された時期があるかどうかは、写真が出てみないと断定できません。多分、無いでしょう。

 日航は、何故、愛称を打ち切ったのか? 私は、あらゆる面で面倒になったからだと思っています。それは、DC-8と727の名称の中にやや不自然なものが混じり始めていると感じるからです。細かに地名を探していくのはもうやめようじゃないかという空気が幹部に蔓延していたに違いありません。

 

1959/10/19 日航整備(株)でDC-8技術者教育を開始
1960/01 追加発注 航空情報1960年3月号
1960/01/13 命名 航空情報1960年3月号
1960/02

KLM、ALITALIA、PANAM、SWISSAIR、SASと交換部品の共同使用と整備のプール協定締結

1960/02/09 DC-8客室実寸大模型完成
1960/02/25 日航整備(株) DC-8のエンジン オーバーホール訓練開始
1960 就航1か月遅れ 航空情報1960年3月号 
1960/07/01 DC-8用シミュレーター訓練を開始

航空情報1960年8月号 



 
  内装を特注

"KIKU_NO_MA" Lounge of DC-8 Jet Courier
 
   空の超一流ホテルをうたい文句にして、最前部ラウンジ にシルクスクリーンによる前田青邨画伯の紅白梅 の壁紙、窓に障子、床に畳の縁取りを配しました。食器類はのりたけ陶器、シートは西陣織などすべて 日本の一級品を用いたということです。

 

広告を開始  



 DC-8にA型、B型、C型という通称はなく、日航もすぐにこの広告を取りやめ、公刊書にも用いていません。
 そもそも、ダグラスが各設計変更時に外部向けのしっかりした名称を考慮しなかったために、CABが仮に名前を付けたり、FAAがダグラスと協議して決めたりしています。次の通りですが、非常にラフなものであることを断っておきます。

FAAの分類

CABの仮分類

 

エンジン

最大離陸重量

DC-8-10

DC-8A

国内線型 

JT3C-6

 

DC-8-20

DC-8B

国内線型

JT4A-8

 

DC-8-30 (JALでは-32、-33)

DC-8C

国際線型

JT4A-9

140〜143

DC-8-50 (JALでは-55、55F)

 

国際線型

JT-3D各型

147

DC-8-60 (JALでは-61、62、62AF)

 

国際線型

JT-3D各型

147〜152

DC-8-70

 

国際線型

CMF-56

 

  はじめに、米国の各社がCAB方式を使ったため、日本航空もそれにならってDC-8Cとしたものと思われます。よって、この広告は一時期だけの珍品となりました。

 

1960/07/22 1番機FUJI到着 航空情報1960年9月号  詳しくはJA8001参照
1960/08/12 スチュワーデスの制服決定 航空情報1960年9月号

1960/08/17 初就航 航空情報1960年10月号
1960/09/05 DC-8 ロサンゼルス線に就航
1960/11/01 DC-8 シアトル線に就航
1960/11/02 DC-8 香港直行便に就航
1961/02/09 DC-8で北回り欧州線検査飛行
1961/04/24 HAKONE号 東京国際空港でオーバーラン事故
1961/06/06 DC-8で北回り欧州線開始
1961/06/19 日航整備DC-8専用ハンガーの第4整備工場完成
1961/09/04 コンベア880 1番機到着
1962/04/02 DC-8-50型 1番機YOSHINO号到着
1963/04/01 DC-4 路線から引退
1963/10/02 東京オリンピック シンボルマークを機体に貼り付け
1963/12/30 NIKKO号 沖縄でエンジン脱落事故
1965/03/09 貨客混載型 DC-8F-55型 1番機ASAMA号 到着
1965/04/01 貨客混載型 DC-8F-55型 1番機ASAMA号 ホノルル経由サンフランシスコ線に就航
1965/07/23 ボーイング727型 1番機到着
1965/10/31 DC-7C 路線から引退
1965/12/23 KAMAKURA号 サンフランシスコで事故
1966/08/18 東京国際空港にDC-8-61がデモンストレーションで飛来
1966/11/12 ニューヨーク線開設 SETO号就航
1967/03/06 世界一周西回り線開設
1967/06/19 大阪万博オフィシャルエアラインに指定
1967/12/15 エアリフトインターナショナル社とDC-8F貨物専用機ウエットリース契約
1968/04/02 大阪〜ニューヨーク線をDC-8で開設
1968/04/02 DC-8F貨物専用機 東京〜サンフラシスコ〜ニューヨーク線に就航
1968/05/29 DC-8-62型超長距離型1番機 AWAJI号到着
1968/06/03 DC-8F貨物専用機 大阪〜ニューヨーク線に就航
1968/06/16 DC-8-62 東京〜サンフランシスコ(ノンストップ)〜ニューヨーク線に就航
1968/07/01 DC-8でニューヨーク〜パリ線開始
1968/09/11 DC-8でバンクーバー線開始
1968/11/22 SHIGA号 サンフランシスコで不時着水
1968/12/16 DC-8-62AF型 1番機 WAKASA号到着
1969/02/28 DC-8-61型 1番機 TSUKUBA号到着
1969/03/30 DC-6B 路線から引退
1969/04/01 DC-8-61型 東南アジア線に就航
1969/07/03 機体外装デザイン変更決定   塗り替え1969/10/09〜1970/05/07
1969/09/30 DC-8でシドニー線開始
1969/12/26 日本航空機体オーバーホール100機目完成 AWAJI号
1970/04/01 DC-8-61型 札幌線、大阪線に就航
1970/06/01 ボーイング747 1番機到着
1970/06/02 DC-8でモスクワ経由ロンドン線開設
1970/08/04 DC-8F ソウル線に就航
1970/09/01 DC-8-62F 1番機 IZUMO号到着
1970/10/01 DC-8でグアム線開始
1970/10/01 DC-8-61型 福岡線に就航
1970/10/31 コンベア880 路線から引退
1971/07/01 DC-8F貨物専用便 サンフランシスコ線に就航
1971/09/01 DC-8でグアム線 大阪寄港開始
   
   
1983/12/24 日本航空、国内線からDC-8引退 最終飛行はJA8057、8060
   
   
   
   
   
   
   
   

    8001

〇 DC-8研究  日本航空所有機とリース機一応完了

 ダッシュ61の残っていた3機の発表をもって、DC-8の経歴と写真を一応完了しました。
 日本航空の日の丸五本線と鶴丸マークを付けて飛んだダグラスDC-8は、延べ66機、うち日航(子会社を含む)の所有機は51機、Nナンバーのみのリース機は13機、内訳は次表のとおりです。
 

    延べ機数 改造機 日航所有機 リースのみ
DC-8-32   6 -53へ1機 5  
DC-8-50シリーズ -53 7 -32から1機 7  
-55 5 -55Fへ1機 4  
-55F 6 -55から1機 2 4
DC-8-61   27   18 9
DC-8-62シリーズ -62 10   10  
-62AF 5   5  
   

66(実質64)

  51 13

 公的資料が無いので、桑原研究と下郷資料等からインターネット航空雑誌ヒコーキ雲が独自に判定した数値に過ぎません。亡き両君に代わって厳しくチェックしてくれる人物が現れることを期待します。