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航空歴史館 いしぶみ


1960年9月 航空自衛隊千歳基地訪問 2個中隊のF-86F

写真と文 戸田保紀

 


 

  1960/昭和35 9月に私は初めて北海道の航空自衛隊千歳基地を訪れました。

 当時19才で東京の写真学校の二年生でしたが週に三日くらい神田の『航空ファン』の編集部で日給300円のアルバイトに精を出しておりました。 ただ夏休みのような長期間の休みの時は下宿していた東中野の親戚のおばさんの家の負担を減らすというので休みに入るとすぐ宮城県古川市の実家に帰っておりました。 

 この年の夏休みも同じような状況でしたがこの夏休みを利用して北海道の千歳基地を取材したいと言うのを社長の戸田万之助さんにお願いしてみました。すんなりOKとなったのかどうかは覚えておりませんが取材の許可が下りたら日にちは後で手紙で連絡するという事になりました。

 夏休みの間実家でぶらぶらしているうちにこの連絡が来まして、92日に取材が出来ることになりました。

 勿論北海道は初めてで前日の91日に古川駅から小牛田駅まで陸羽東線に乗り小牛田駅で東北本線の急行「おいらせ」 に乗り換え終点の青森駅からは青函連絡船に乗って函館駅までそこから札幌駅までまた汽車に乗ってと言う当時の私にとっては千歳基地に着くまで丸一日もかかった大旅行でしたがメモ帳には古川-札幌間の汽車賃は 1780円と書いてありました。

  どうもこのところの物忘れのせいなのか当時の情景がほとんど思い浮かばないものですから目の前にある写真を見ても話しが膨らまないんですね。ところがやっと見つけた1960年のメモ帳を見ましたら何と千歳基地には学校の同級生と二人で行っているんですね。

 またこれまでずっと8月に行ったとばかり思っていたのが実際には家を出たのは91日 木曜日で翌日の92日の金曜日に千歳基地を訪問しておりました。

 このメモを見ますと青森で青函連絡船に乗るときに偶然北海道を回ろうとしていた写真学校の同級生(出身は熊本県)に会いまして彼と一緒に千歳基地まで行っているのが分かりました。

どんな話しで一緒に千歳基地に行くことになったのかどうにも思い出せません。ところが千歳基地に着く頃この同級生は胃が痛くなって基地の養護室で寝せて頂く事になり私が一人で基地を見て回ったようです。そういえばそんな事があったなあと言う程度の記憶しかありませんが青函連絡船の中と札幌のテレビ塔の下で撮った私の写真があり誰かに頼んで撮ってもらったんだろうかと考えていました。

 残念ながらメモ帳には青森まで乗った列車が急行おいらせだったと言うくらいしか書いてありませんでした。札幌駅から千歳駅まではまた汽車に乗って行きましたが千歳基地の広報の方から「せっかく来てもらったけど今日は演習をやっているのでエプロンの中には入ることが出来ない」と言われてしまいました。

 何でそんな日に取材OKを出したのかと思うのですが急に決まった演習だったのかも知れません。

 フィルムは36枚撮りで4、5本は撮ったと思いますが今回見つかったのはほぼ一本分です。 55ミリの標準レンズと135ミリの望遠をアサヒペンタックス S2という一眼レフにつけて撮りましたが今から55年前の千歳基地のF-86F セイバーの記録として見て頂ければと思いまして今回ヒコーキ雲をお借りしまして発表させて頂く次第です。

 1960年頃の千歳基地には今と同じ第2航空団が配置されていて、F-86Fセイバーを装備する第3飛行隊と第4飛行隊の二つの戦闘機部隊が所属していました。エプロンには演習のためこの二つの飛行隊の機体がズラッと並んでいましたがその後方に見える広大な風景は今まで目にしたことがないもので北海道という別天地の飛行場というのを実感しました。数少ない記憶の一つとして今でも頭の中に残っています。

 出動待機中の機体には整備の方がそばにずっと付いていましたが、9月初めの北海道はまだ結構暑いので思い思いに主翼の下などで待機しておられました。演習のシナリオがどのようなものだったかは分かりませんが当時はやはりソヴィエト連邦が一番の脅威だったと思いますので対ソ連機というのが訓練の目的だったろうと思います。

 この頃の先代『航空ファン』にはカラーの頁がありませんでしたしカラーフィルム自体が大変高くてなかなか使えず千歳でも全部がモノクロフィルムでの撮影ですが垂直尾翼と機首の塗装が黒っぽく見えるのが第3飛行隊機白っぽく見えるのが第4飛行隊機です。

第3飛行隊






第4飛行隊








 







・ 戸田さんのクローズアップから例によって虫眼鏡を‥  F-86F-40は、ガンベイドアをはずして整備する時に、主翼付け根の前縁3インチ延長部分が邪魔になるので取り外しますが、その取り外した三角形のチップコーンが見えます。(取り外し後の中身は大分県八面山の写真にあり)  


 もうひとつ、操縦席へ登る足掛けがどこにあるか分る写真もなかなか珍しいものです。整備隊員は、こんな不安定な足場でパイロットを支援していたのですね。









 F-86F の機体番号を飛行隊のカラーを元に整理させて頂きますと今回の写真には次の機体が写っておりました。イカロス出版が2005年に発行したミリタリー エアクラフト インジャパンNo.6 航空自衛隊 F-86 & F-104の巻末に載っている全機のリストを元にして表を作りましたが、USAUSNと書かれている機体はアメリカに返還されたF-86Fです。

2航空団 第3飛行隊所属機 2航空団 第4飛行隊所属機
62-7513 USA  62-4456 USA 
62-7517  USA 62-7472 USA
62-7519 USN   62-7496 USA 
62-7531  USA  62-7500 USA
72-7713  1961/04/06  事故 (下記)  82-7784 USN
72-7754  USN   82-7802  
72-7763 USN   82-7812 USA
82-7783 USN   82-7829 USN
82-8807  現在 航空自衛隊入間基地に展示  82-7834 USN
82-7852 USN   82-7838 USN
92-7875 1961/04/06  事故  (下記)  92-7888 現在 大分県八面山展示
 92-7884  1961/04/06  事故 (下記) 92-7894  
92-7885 現在 航空自衛隊百里基地に展示    02-7944 1972/2/16  事故
92-7892      02-7966 現在 航空自衛隊浜松基地に展示
92-7896    
92-7897 現在 航空自衛隊岐阜基地に展示
02-7953 1961/04/27  事故
02-7955   

  また第3飛行隊の 713号機、 875号機、 884号機が同じ196146日に事故となっていますがこれはもう一機、 503号機と合わせて4機のF-86Fが訓練中に天候不良で墜落した大事故で失われた機体でした。
航空情報1961年6月号国内ニュース

  航空歴史館いしぶみには、OKUBOさんが記録されたこの一年後の19618月の千歳基地エプロンで見られた機体の写真とリストが載っていますが、885 519 しか共通の番号の機体が見られず損耗などによる移動が結構激しかったのではないかと思われます。

一年後のエプロンには第4飛行隊のF-86Fは小松基地に移動し代わりにF-86D103飛行隊が移動してきているのが写っています。第3飛行隊も1963年には松島基地に移動して代わりに千歳基地にはF-104J201飛行隊が誕生しているという超音速機の時代を迎えて大きく変貌したのが分かります。






 胃が痛くなって基地の養護室で寝ていた同級生もご親切に対応して頂いたおかげで元気になり一緒に千歳基地から札幌駅に帰ったのはもう夕方でしたが時刻表を見ると間もなく出る夜行列車だと朝函館に着くと言うのでここで同級生と別れて朝来たコースを逆にたどって宮城県の古川市まで帰ってきました。往復に丸二日もかかりしかも私の取材は消化不良に終わりましたが今となっては撮っておいて良かったと言う思いがあります。

日替わりメモ

〇 1960年9月 航空自衛隊千歳基地訪問 2個中隊のF-86F 掲載のお礼

 戸田保紀さんから

  大変ありがとうございました.、一言 すごい!! です。何がって佐伯さんの編集がです。思いもよらない切り口で参りました。

 写真もちゃんとサイズを整えてくださり,大変見やすくなりました。4機が墜落した事故のニュースも航空情報から引用してくださりこのような出来事があったのかと今になって詳しく知ることができました。

 今回ヒコーキ雲に取り上げて頂き長年の胸のつかえが取れた思いです。あるはずなのに見つからないというのは本当にイライラするものですが、ヒコーキ雲を通じて世に残そうとして写真やメモを探し出してきましたが、今回は本当にうれしかったです。忙しい中時間を割いて頂きましたが、また何か出てきましたら送ります。

    

佐伯から : 多くの方からこのようなお礼のメールを頂き、大きな励みになっております。いちいち紹介をしておりませんが、この度は、戸田さんが東北大震災で未だ片付かない中から探ししだしてくれたもので、自衛隊航空史など歴史の空白を埋めていく貴重な発見 でした。ありがとうございました。